1. 初めに
「その時、私はカメルーンを去らなければいけないと悟りました。」
フォンフォン・クリストファーが母国カメルーンを去る1ヶ月前、彼は同僚が殺害されたことを知らされます。その後、友人から彼自身も政府に追われていることを知り、すぐに国を離れるべきだと警告されました。彼は政府に連れて行かれた妻と子ども達から電話を受け、カメルーンにいることで家族にも被害が及ぶことを思い知らされます。クリストファーの物語から、来日するその他大勢の難民のように、彼が腐敗した国で厳しい状況と難しい判断を常に迫られていたことがわかります。
この物語は、クリストファーがアングロフォンとしてカメルーンでどのような生活を送っていたのか、またなぜ彼は政府と戦う道を選んだのかを明らかにします。そして最後には、彼が母国だけでなく、愛しい家族との別れをも選択しなければならない理由となった政府による迫害がどのようなものだったのかについて語られます。

2. バメンダでの生活 〜アングロフォンとして育ったカメルーンでの生活〜
クリストファーの物語を把握するにはまず、アングロフォンとフランコフォンの対立を理解することが重要です。フランス語を母語とするフランコフォンが多数派のカメルーンでは、政治、経済、ビジネスなど多くの力が彼らによって支配されており、英語を母語とするアングロフォンの立場が弱いことがわかります。この分裂は、1960年代に南カメルーンと呼ばれた当時の国がカメルーンの一部となって以来続いています。クリストファーが生まれ育ったバメンダという地域は、アングロフォンが多数派を占めており、このような政治的混乱が勃発したとほぼ同時期に生まれた彼は、2つのグループの分断が何年にも渡って構築されていくのを目の当たりにしてきました。
7人兄弟の長男として生まれたクリストファーは、よく本を読み、勉強熱心で野心的な人に成長しました。また、彼は裕福な家庭に生まれ、父親は政府の財務課で仕事をしていました。これにより、クリストファー自身も後に同じポジションで働く機会を得ることになります。しかし彼は、「今のカメルーンでアングロフォンが政府機関で働くことは不可能に近い」と語ります。彼が生まれた1960年代はまだ今ほどフランコフォンによる弾圧は深刻ではありませんでした。カメルーンには元々、アングロフォンとフランコフォンそれぞれが同じ州内に独自の政府を持つことができる制度がありました。しかし、1972年にカメルーンは単一国家となり、カメルーン連合共和国と改名され、最終的には1984年にポール・ビヤ首相の下でカメルーン共和国となりました。クリストファーは、取材でカメルーンの歴史や学生時代に個人的に経験した差別について語ってくれました。
3. カメルーンとクリストファーの時系列表
| カメルーンの状況 | クリストファー | |
|---|---|---|
| 1960年代 | 南カメルーン(英語圏)がカメルーン共和国と合体し、カメルーン連邦共和国を形成 | バメンダ(英語圏)に生まれる |
| 1970年代 | カメルーンは国民投票により単一国家となり、カメルーン連合共和国に改名 | ヤウンデの大学へ通い、フランコフォンからの差別に直面する |
| 1980年代 | アマドゥ・アヒジョ大統領の辞任により、ポール・ビヤ首相が就任。カメルーンは2000年代初頭まで経済危機を経験 | 政府機関で働き始める(26年間勤務)。経済危機により労働者に対して適切な給料が支払われなくなる |
| 1990年代 | 政府がアフリカ経済の立て直しと民間企業の強化のため、国営企業の民営化を進める | 労働者の権利を守るため労働組合を結成する |
| 2000年代 | 500万の英語話者を代表した分離主義者と政府の緊張が高まる(今日のアングロフォン危機) | アングロフォンのための労働組合結成に成功するが、政府による迫害の対象になる |
4. カメルーンでの民営化問題 〜政府機関での仕事と労働組合の設立〜
「 彼らがしていることは良くないことだと分かりました。政府は不自然な動きをしていました。なので私は、影響力のある労働組合を作ろうと思いました。」
アフリカ研究者のピート・コニングスの研究論文によると、カメルーンにおける民営化は、ブレトン・ウッズ協定によってアフリカに課せられた国の安定化と構造の調整において非常に重要な手段となっていました。「アフリカ経済を市場に開放し、民間セクターの発展を促進することは国の全体的な戦略のとても重要な一部です。」アフリカの政府は、国営企業を国内外の民間資本に売却するという国際的な圧力に晒されていました。そして政府は、フランコフォンが政治的に存続するため、そして国際援助を受けるために、企業の民営化を余儀なくされました。
このときクリストファーは大学でコンピューターソフトウエア工学を専攻した後、政府機関でコンピュータと財務会計の仕事を始めていました。明確に言うと、彼は国営の水道公社でコンピューター部門の責任者として働いていました。彼によると、半官半民とは、多くの場合に政治的権力を持った政府によって所有された会社または組織を説明する際に使用される用語で、彼が働いていた場所もこれに準じていました。そこで働く中で彼は、労働者の不当な扱いと3年間にも及ぶ不適切な給与の支払いを経験します。そのような状況下で、政府は国営の水道公社の民営化を開始し、最終的にモロッコの会社に売却されることになります。
そして、クリストファーが説明するように、この国営企業の民営化が労働者の環境をさらに悪化させます。クリストファーにとって労働組合を結成することは、国際的および政府の圧力に直面している地元のカメルーンの労働者を守るための、唯一の方法だったのです。
コンピューター部門の責任者だったクリストファーと彼の同僚が結成した労働組合は、のちに大統領職や国会にも影響を与えるような人数を集め、十分な影響力を発揮します。この活動には1000人から1200人ほどのメンバーが集まり、彼らは複数の集会やストライキを行い、カメルーン政府を動揺させました。
労働組合の設立は違法ではなかったものの、組合の結成は直ちに政府の改革を妨害しているとみなされ、組合長のクリストファーは政府による迫害の標的となってしまいます。変化を望み、労働者の権利を守るため、労働組合を結成したクリストファーでしたが、それが政府の敵としてみられる原因になってしまったのです。
そしてある日、労働組合と政府との間で開かれた会議の後、彼と同じく組合の主要メンバーだった彼の同僚が殺害されたことを知ります。
「私の同僚が死んでいるのが見つかり、皆彼がなぜ亡くなったのか理解することができませんでした。この事件は私たちを恐怖に陥れ、私はすぐに逃げ出したくなりました。」
経済危機の間、ポール・ビヤ大統領がカメルーン開発公社(CDC)を民営化し、フランコフォンの企業に売却しようとしているのではないかとアングロフォンの間で噂されていました。CDCは、主にカメルーンの沿岸地域に位置し、地元のアングロフォン(英語圏)の経済に大きく貢献した、最も古く大きい農産業の国営企業です。そのため、アングロフォンが長年築いてきた文化的および経済的遺産を表すこの企業を、フランコフォンを多数派とする政府が民営化することは、両者の緊張をさらに高めることになります。クリストファーは当時すでに国営の水道公社のために行動し、リスクを背負っていましたが、その後CDCの労働者たちも守るため活動を開始します。
クリストファーは労働者の不当な扱いを表明するため、複数の集会やストライキを起こします。しかし、そのような活動を行うたび政府から警告を受け、幾度も妨害されました。そして時には武力によって制圧されることもありました。
5. 政府による迫害とカメルーンを去る決断
「私たちは頻繁に暴力を振るわれ、警察にも連れていかれました。ストライキを起こすと殴られる、その繰り返しでした。」
CDC組合は2002年に設立され、最初のストライキは2008年に起こりました。そしてクリストファーの同僚は2012年に殺害されました。この長期に渡る活動期間、クリストファーは一時身柄を拘束され、数え切れないほどの脅迫的なメッセージや電話を受けました。また、警察官からの暴力も何度かありました。そして、集会などを行わないよう警告を受け続けました。
「とても苦しい選択でした。しかし家族のために決断するしかありませんでした。私が姿を消し、別の場所で生きること。私や家族が殺されずに生きるためには、それしかありませんでした。」
クリストファーは妻から電話を受け、政府が彼を追っていることや、すぐにカメルーンを離れる必要があることを知らされます。彼にとって家族を置いていくことはとても難しい選択でしたが、彼らの安全のためにはそうするしかありませんでした。労働組合長だった彼は、市民社会組織と繋がりがあり、会議の派遣団員として日本に来る機会を与えられました。そして、すぐに彼はその機会を利用しようと決断します。しかし、その準備には政府から狙われ続ける中、約1ヶ月も時間を要しました。幸いにも、警官だった彼の叔父の助けを借り、空港へ向かうことができました。
政府に抗議し、政治難民となる多くの人々は彼らの命だけでなく、家族の命をも危険にさらされるため、母国を離れることを余儀なくされます。築いてきた人々との関係や、それまでの生き方全てを捨てなければならないのが難民であり、彼らが経験する別れと孤独は精神的にも、身体的にも辛いものです。
クリストファーが国営の水道局で働いていた際に起こした行動は、政府に反感を買い、彼はそのせいで自身が迫害の標的になってしまうことを覚悟していました。何度も警告を受け、脅迫され、それでも彼はCDC組合の設立に踏み切りました。彼は、自身の行動が自分の命を危険にさらすことになるかもしれないことを自覚していました。これは一種の自己犠牲や、英雄的な行為であるようにさえ感じられます。しかし、クリストファーは自身の行動をこのように考えてはいません。彼は取材で、ここまでの影響力を持つことになるとは思っていなかったと語りました。「自分の心に従っただけです」- 人々が政府や民営化の問題によって苦しんでいることを知っている中で、彼は当然のことをしただけだと語りました。「周りの人が苦しんでいたから行動しただけです。」と。その中でも彼は、真実を語り続けることがいかに重要かを訴え続けました。また、彼はもう一度同じ窮地に立たされたとしても、同じ行動を取ると話します。そして彼は最後に、「私たち全員が団結して、もっとお互いのことを深く思い合えることができれば、人生はより良いものになると思います。」と語りました。