
ガブリエル
私の日本での物語
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ガブリエルは先進的な日本社会での新しい機会や経験に胸を高ぶらせ、1991年3月3日に来日しました。しかし、最初は希望と期待で満ちていましたが、少ない支援や情報、そして入国者収容所という未知の施設での拘留と、30年にわたる彼の暮らしは容易なものではなかったのです。ガブリエルの人生は人々の心を動かすだけでなく、日本の隠された社会問題、そして学校で学ぶことのない難民の人生を描いてくれます。
目次
1. 日本へ来る前
1.1. 希望と誠意に満ち溢れていた幼少期
2. 日本へ来てから
2.1. 不確かな始まりへの旅
2.2. 深まる苦境:世界的な不況
2.3. 私にできる人助け
2.4. 暗い真実
2.5. 全てを変えた本
2.6. 人生最悪の日
2.7. 収監と絶望
3. 収容から釈放まで
3.1. 入国者収容所 ー 決して終わることのない「待つ」という生活の始まり
3.2. 収容と鬱 ー 同じ屋根の下にいる厄介人
3.3. 収容か投獄か?
3.4. 希望的な未来、まだ遠い道のり
3.5. 大きな瞬間に向けての道のり
4. 収容所の外で生き残る術
4.1. 住居探し
4.2. キリスト教の繋がり:体力と精神の維持
4.3. ガブリエルを30年間支えてきたものと彼の生存観
5. 現在(2020)
5.1. ガブリエルの見る日本
5.2. ガブリエルの現在の生活
5.3. 将来の計画
5.4. ガブリエルの将来の願いと日本に向けたメッセージ
1. 日本へ来る前
1.2. 希望と誠意に満ち溢れていた幼少期
皆が彼の友達でした。8人兄弟の末っ子として生まれたガブリエルは、家族や隣人を始め、彼の笑顔と周りの人への強い好奇心は周囲の人々を惹きつけました。ガブリエルの幼少期に最も影響を与えたのが彼の母でした。彼女は新しい考えに寛大で、様々な分野に優れていました。料理や編み物、ガーデニングや物づくりで日々、子供たちを魅了していました。彼女は信仰の深い女性でもあり、子供たちを日曜の教会や特別なイベントには欠かさず連れて行ってました。ガブリエルは自分の母を「自分の子を何よりも愛し、献身的にカトリックの教えを日々練習していた人だ。」と表現します。その母に育てられたガブリエルもまた以下のようなキリスト教の教えを学びました。
「愛はこの世で最も偉大な教えであり、人生、またそれに関連するすベてを表すもの」
ガブリエルはナイジェリアでも有数の歴史や文化が根付いた市、ベニンシティで育ち、様々な文化や機会に恵まれました。その中でもっともガブリエルに影響を与えたのが教育でした。ナイジェリアの中でも一般より裕福な家庭で生まれたこともあり、子供の頃から彼の興味が赴くままに教育の機会が与えられました。幼い頃の教育を振り返ると、彼は「とても有意義なものだった」と語りました。学業面では、彼はクラス代表を務めるだけでなく、彼の高い成績から何度か飛び級する機会もありました。彼の学びや新しい知識への好奇心は弱まることなく、さらに高校入試では国からの奨学金が授与されました。


高校を卒業後、14歳という若さで彼はドイツの大学に入学し、自然療法の勉強に勤しみました。自然的療法を用いた治療はガブリエルに新しい健康の可能性を導き、言い換えるならば、非科学的治療と用いた健康法です。この知識はガブリエルにとって、自分の信仰をどのように大学での専攻とつなげられるかの答えになりました。後に、ここで得た学びは、自然療法クリニックを開き必要とする人を助けるという彼の夢の道標になりました。

この輝かしい学生時代に対し、ガブリエルは自分の先生や母のサポートのおかげだと謙遜し、こう話してくれました。
「親が自分の子を愛で満たすことで、その子の才能を引き出すことができる」
ナイジェリアから帰国後、「より多くの文化や世界に触れなさい。特に欧米文化を親しみなさい。」という母の言葉を受けた彼は、旅をすることを決めました。彼の母がヨーロッパに親しみを持っていたこともあり、フランスやイタリア、そしてその後はアジアへと移動し、フィリピン、ラオス、韓国、中国、台湾、タイと数多くの国を訪れました。様々な文化や人々に触れるうちに、旅をすることはガブリエルの人生に置いてなくてはならないものになりました。未知の土地に足を踏み入れることや新しい人々と関わりを持つことは彼の大きな楽しみになりました。
ガブリエルが日本にたどり着いたのは1991年3月のことでした。彼は初めて日本に訪れた時のことをこう振り返ります。
「とても驚きました。至る所に広がる技術と発展。とても素晴らしかった。今からここで過ごす自分にとって、どれだけ機会が待っているのだろうと期待に胸を膨らませました。」
彼は日本に残ることを決断し、自然療法クリニックを開く夢と家族に送るお金を稼ぐことにしました。日本に住むことは、ガブリエルにとって夢を叶えるための大きな一歩でした。

2. 日本へ来てから
2.1. 不確かな始まりへの旅
ガブリエルは大きな希望とともに良い仕事を探すことができると強く信じ、日本に入国しました。今までの旅が順調に進んでいたので、ガブリエルは自信を持ちながら日本に来ました。香港に滞在していた頃、既に日本への移動と滞在するためのリサーチをしていたので、日本ではお金を稼いで、貯金ができるという確信がありました。

しかし、日本に入国してガブリエルが外国人として目の当たりにしたものは、予想していたよりもかなり厳しい現実でした。日本での最初の数ヶ月で既にお金は底をつきはじめ、観光ビザをすぐに更新することもできませんでした。当時、一握りのお金しか持っていなかったため、ガブリエルは生き残るためにお金を稼がなくてはなりませんでした。幸運なことに、ガブリエルは東京都のひばりヶ丘にある外人ハウスへ迎え入れられ、引越しすることができました。そこで出会ったナイジェリア人の男性が英会話講師アルバイトをガブリエルに紹介し、そのおかげでガブリエルは経済的に自分を支えることができました。その後、ガブリエルは住んでいたアパートの家賃の6ヶ月分を払うことができました。当時のことをガブリエルはこう話します。
「なんとか頑張りました。英語を教える仕事があるだけ幸運だったのです。」
外国人として日本で働いて、生き残るのはどれだけ辛いものなのか、ガブリエルは日本に来てからその事実に直面しました。臨時滞在が延長されたたものの、どのようにして貯金し母国とは完全に異なる奇妙な外国で住み続けることができるのかということを、彼は深く悩んでいました。
2.2. 深まる苦境:世界的な不況
数ヶ月が徐々に数年という月日になっていきました。ガブリエルは2、3個の英語とドイツ語のアルバイト講師を掛け持ちしていましたが、そのお金も辛うじてアパートの家賃を払う程度のものでした。当時の困難な状況下では、全く貯金することができず、日本で生き残る厳しさを痛感しつつも逃げ出すことのできない悪循環との闘争であったと表しました。また、彼にとってこの厳しい日本生活は「苦境」そのものであり、これからもより一層厳しくなるのです。その呪いが厳しくガブリエルにのしかかったのが2007年でした。世界恐慌が拡大し、その結果、ガブリエルの勤務先の学校も含め、多くの企業が倒産しました。ガブリエルが個別で担当していた学生たちも、勉強や海外赴任を理由に離れてしまい、その結果ガブリエルは経済的に苦労しました。そして彼の努力も虚しく、家賃を支払うことができなくなりました。


彼の家主の心遣いもあり、アパートに住むことはできましたが、彼の事情は更に厳しくなりました。2度の冬、彼は電気料金も払えなかったため、ガスと水を使うことができませんでした。ガブリエルは、日常生活に必要な大半のニーズが遮断されたアパートで、何をし、どのように生活するかという選択肢を使い果たしていました。当時、調理もできなかったため、ガブリエルは不安を抱えながら長い間とても思い悩んでいました。その時、近所のスーパーで深夜になると弁当が半額になることを発見しました。彼は深夜までこの半額弁当を待ち、過酷な状況の中でも生き残る術を見つけることができました。
自然療法の専門家であり、健康を何よりも大切にするガブリエルは、直面していた困難と物資不足の状況下でも自分の健康を継続的に守ろうとしました。そのため、基本的な必需品から切り離されていたにも関わらず、深刻な病気にかかることもありませんでした。ガブリエルはまるで自分の信仰が消え去っていくように感じていました。彼は教会に行っていましたが、厳しい状況のため通い続けるのを辞めざるを得ませんでした。当時をガブリエルはこう振り返ります。
「一連の失望と困難を経験し、定期的に教会に行くのをやめてしまいました。私の家族がナイジェリアでは一般より裕福であったこと、そして学問的および専門的な経歴があったにもかかわらず、正社員としての高給な仕事を得ることができなかったのです。」
ガブリエルは、自分に起きる不幸と厳しさの中、何を信じ続ければいいのかわからなくなりました。あとどれくらいこの状況を耐え続けられるか分からず、かつてあった強い信仰を維持し続けられるのかという疑問さえ抱いていました。
お金を稼いで家に帰るという単純な旅として始まったものが、今ではガブリエルにとって17年間の長期滞在になっていたのです。彼の置かれた厳しい状況で希望を見出し、また彼がイエスに対して持っている強い信仰も維持するために、ガブリエルは健康管理・愛・信仰について、2002年から、辛い状況の中、本を書き始めました。
2.3. 私にできる人助け
本を書くにつれ、ガブリエルは出版社を探すことにしました。しかし、彼の複雑な境遇や金銭的な理由により、それは簡単なことではありませんでした。数年かけてお金をためたガブリエルは、ようやく出版社を2008年に見つけることができました。それはガブリエル・オサヘニ・アゲヘド博士による「永遠に健康に、見た目良く、裕福に」が出版された年となりました。ガブリエルが持つ信仰、人智、そして健康の知識を生かし、新たな生き方を社会に提示するためにこの本は書かれました。

ガブリエルの本は、年齢差別と個人の可能性を制限する社会の偏見を取り除くため、健康を推進する新しい方法を示しました。本の内容について、こう話します。
「社会はその人の年齢で何ができ、何ができないかを制限し、これが私たち自身の意識や考え方にも影響を及ぼします。しかしこれは間違った見解なのです。」
彼はさらに、「このような考え方も、うつ病や体の劣化につながる。」と説きました。ガブリエルがあげた一例は、退職後に起きるうつ病・自己否定といった精神病の負の連鎖です。これは統計学的現象でもあり、退職後の自殺者数や死亡率の上昇は、社会の離隔から生まれる精神病が原因だと言われています。ガブリエルは身体に悪影響をもたらすこのような精神的制限と負の連鎖を改善しようとしています。そしてこの本を一つの通過点とし、ビジネスの大立者として変化をもたらせることを願っています。
彼の本の中には、「世の中で認知されている病気は氷山の10%にしかすぎない」と記されています。つまり、私たちが知らない病気が数多く存在するのです。そしてガブリエルは自然的方法を通して、自己治療、ポジティブ思考、そして健康を促進するマインドセットによりこの問題を解決しようと勤しんでいます。この本は具体的な解決案を提示するだけでなく、キリスト教の教えがどのように健康に繋がるのかも示しています。その中でガブリエルは以下のようなようなキリスト教の様々な引用を紹介しています。
「み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。イエスは振り向いて、この女を見て言われた、『娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです』。するとこの女はその時に、いやされた。」
マタイによる福音書9章21-22節 (YouVersion)
これらの節はガブリエルが聖書の中でも特に注目している部分でもあります。彼は、「これらの価値観や努力は心身ともに健康的に長生きするのに必要不可欠なものでもあるということです。つまりこれは、自分の内なる可能性を信じる力です。」と強調しています。これは、キリスト教が私たちの健康と心に貢献してくれる方法の一つです。彼の信仰の哲学が彼の価値観に影響し、日本での生活でも信仰を軽視するのことがありませんでした。ガブリエルはこう話します。
「ポジティブ思考、幸せであること、そして希望を諦めてはいけないのです。これを持つことで心身の健康も伴ってくるからです。」
彼はナイジェリアとの繋がりを保つため、自分の本を故郷に送り、妹の助けをかりながら近所の人々に本を配りました。しかし、やっとその手続きができた2008年、彼を取り巻く環境を大きく変える出来事が起こりました。ガブリエルの出版した本が、テロリスト集団であるボコハラムの目に留まったのです。そして、内容を見た彼らは激怒し、ガブリエルがもしナイジェリアに足を踏み入れることがあれば、その時は命はないと脅迫しました。
2.4. 暗い真実
ボコハラムとは、ナイジェリアに2000年頃に出現した過激派テロリストグループです。ナイジェリアの北部を中心に組織され、ナイジェリアで彼らの宗教が崇拝されることを目標としており、ガブリエルが言うには「ナイジェリアのイスラム化」を目指しています。彼らの危害によって教会が燃やされ、女性はレイプされるなど深刻な被害が及んでいます。「彼らは冷酷な犯罪者であり、死を恐れていません。どれもイスラム教のジハードのためだと信じているからです。」とガブリエルは語ります。(イスラム教を信仰する者のほとんどがこの過激な行動に走ることは滅多にありません。)

ボコハラムがどこにいようと、彼らの悪行に国や国境は関係ありません。ガブリエルはこう話します。
「もし、彼らに十分な金銭力があれば、ナイジェリアにいる私の家族を脅迫するのではなく、日本に使者を送って私を殺しにくるでしょう。」
近年では、ボコハラムの危害はナイジェリアに限らず、カメルーンやチャド、そしてその周辺のアフリカ諸国に及んでいます。金銭的な制限がもしなければ、今以上に広範囲に及ぶ地域に被害が広がっていたとガブリエルは解釈しています。彼の本にはイスラム教のクラン(イスラム教信者の聖書)からの引用がなく、キリスト教の教えを題材に本を出版したという理由から、ボコハラムは彼にファテゥワ(イスラム法の用語)を言い渡しました。これによって、ガブリエルはナイジェリアに帰ることが不可能になりました。「私がもしナイジェリアに帰ると、死人としての道しか残っていない」のです。
アフリカ内でのボコハラムとキリスト教の闘争は、長く困難な問題になっています。多くの兵士が負傷し、最悪の場合、過激な攻撃によって死に至る場合も少なくありません。近年では、ボコハラムはより巧妙な方法で様々な悪行を行っています。ナイジェリアの北端を中心に以前は活動していましたが、南方のガブリエルの住んでいた地方にも足を伸ばし、畑を荒らしています。これによって、農民たちは穀物を売ることができなくなり、結果、日常生活に必要な食糧や物資を売ることができなくなります。最悪の場合、その農家の妻を犯すというケースもあります。ガブリエルはこう説明します。
「彼らはナイジェリアの市民をキリスト教信者と見ています。なので彼らは私たちの命を何とも思っていません。常に誰かが傷つけられ、殺されているのです。彼らはナイジェリアをイスラム化するためにどんな手段も惜しみません。」
この状況により、難民の数が増えました。UNHCRの調査によると、ナイジェリアを追われた難民の数は244,000人に上り、ナイジェリア国内では200万の人々が家を追われ国内での避難を余儀なくされています。この数字は、周辺諸国のチャドやカメルーンも含めると550,000人にのぼります。
2.5. 全てを変えた本:ボコハラムから追われる日常
ボコハラムの影響により、2008年、ガブリエルは難民になりました。ボコハラムからの脅威を受けることはガブリエルにとって、とても厳しいものでした。彼はナイジェリアに二度と帰国できないだけでなく、日常生活の中で家族の安否にも悩まされることが増えました。ガブリエルの本を見つけて以来、ボコハラムは彼の家族の元に訪れたり、嫌がらせをするようになりました。ボコハラムはガブリエルの家族に、ガブリエルの居場所を伝えなければ殺すと脅迫し、暴行を加えることも少なくありませんでした。
「ナイジェリアの知り合いや姉たちからボコハラムのニュースを聞く度、私は気が気ではありませんでした。自分の状況だけでなく、ナイジェリアにまだ残っている姉たちが心配で仕方ありませんでした。彼女らがボコハラムの次なる被害者になる可能性は十分あり得たからです。私は今日本に住んでいるので身の危険はありませんが、彼女らはまだ危険な場所にいます。とても心配です。毎日神に彼女らの安全と健康を祈っています。」
日本に住んでいることにより、ガブリエルにはあらゆる危険や危害からの影響はありません。しかし、ナイジェリアにいる彼の姉たちの安全を祈ると共に、ボコハラムの危害が収まることがあれば、いつの日か家族がもう一度再会できることを日々願っています。
数年後、彼は姉の一人が2013年に亡くなっていたことを知らされました。彼女の死は、ボコハラムによる日常的な家族への嫌がらせや脅迫からくるストレスが原因によるものでした。ガブリエルの家族は今でも嫌がらせを受け続けており、ここ数年の間にも彼のもう一人の姉や姪はボコハラムの危害や暴力に悩まされています。二人は運よく危機を免れることができたが、同じく家に住んでいた彼の他の家族はボコハラムによって殺されてしまいました。ガブリエルは恐ろしさを感じると共に、家族と再び一緒になることは今後も二度とないだけでなく、今この瞬間にも自分の家族に身の危険が迫っていることに絶望しました。彼の本は悪夢へと化し、彼が難民とならざるを得なかった大きな理由でもありました。


2.6. 人生最悪の日
本が出版されてから4年が経ったものの、ガブリエルは仕事がないまま、ますます食ベる物やお金に困るようになっていました。彼は本を出版することで売り上げを得ることを考えていましたが、実際には彼が書いた本からもたらされたのは、彼と彼の家族への激しい迫害であり、それ以外に何もありませんでした。彼は、愛する姉妹が殺されるかもしれないという危険を感じながら日々を過ごしています… 今、この瞬間にも危害を加えられるかもしれないという不安の中で、家族は今でもボコハラムから隠れて生きています。家族が常に危険の中にいる、そして一人、また一人と亡くなっていく… この現状の中で生きるガブリエルの気持ちは、言い表せないほどの不安と絶望で休まることがありません。ガブリエルにとってこれ以上悪いことは起こらないだろうと思った矢先、2012年2月17日に彼の家主がアパートの立ち退きを命じました。荷物を積み、道路にそって歩きながら、ガブリエルはホームレスとして生きるこれからの生活のことで頭がいっぱいでした。


ガブリエルが様々な思いを抱えながら歩いていたその時、警察官に呼び止められました。警察官はガブリエルにいくつか質問を聞いた後、彼の当時の状況に気が付き、近くの駅に誘導し、更に質問を重ねました。その後、ガブリエルは品川にある東京入国管理局へ送り込まれました。ガブリエルはこの時期を人生で最も辛い瞬間だったと振り返っています。「この日が今まで経験した中で一番に残酷、とにかく残酷な日だった」と言及し、経験したこと全てが彼にとって「恥」でした。以前住んでいたアパートから追い出されただけでなく、入国管理局にも送り出され、自分の尊厳と存在そのものが大いに傷つけられた日でした。その日、彼はこの悲惨な状況の苦しみから逃れたい一心で神様に祈ることしかできませんでした。
2.7. 収監と絶望
東京の品川に到着後、入国管理局にてガブリエルは、母国に帰ることは可能なのかと質問を受けました。彼の人生はボコ・ハラムに絶えず脅かされているため、唯一の選択肢は日本にとどまることだとガブリエルは彼らに伝えました。ガブリエルは当時の状況をこう語ります。
「私は品川の入管でついに『私はナイジェリアには戻りません』と言いました。なぜか聞かれたので、こう答えました。『ボコハラムのせいでナイジェリアには戻ることができないのです。ボコハラムはナイジェリアにあるテロリストグループで、私にファトワを宣言しました。これはつまり、私がナイジェリアに戻ることがあれば、彼らは私を殺すという意味です…。』すると入管は分かったと言い、『じゃあなぜ今まで難民認定を申請しなかったのか?』と聞いてきました。私は『怖かったのです…。もしビザが以前なかったことが入管に知られたら捕まると思い、それが怖くて今までは申請できなかったのです。』と答えました。」

ガブリエルは、今はボコ・ハラムに迫害されているため、難民認定を申請しなくてはならないと知っていたのですが、それまではビサがなかったため、その事実を知られる恐怖のあまり申請に踏み切れなかったのです。これは、他の多くの難民が経験しなければならない厳しい現実を反映しています。彼らは難民認定を申請する必要がありますが、ビザなしで申請をすると、ガブリエルが言ったように、入国者収容所に閉じ込められることを彼らは知っているのです。
案の定、この答えでガブリエルはすぐに入管と同じ建物に謎に包まれた未知の入国者収容所に拘留され、また、どのぐらいの期間拘留されるのかさえ入国者収容所からは知らされませんでした。ガブリエルは、赤の他人である多くの外国人が住んでいた建物の部屋に連れていかれました。お金を全く所持せず、まるで囚人として閉じ込められているような気分になる部屋の中、ガブリエルは困惑し、このような隠された場所で信仰と生命を維持できるかどうかについて、考え続けていました。彼が長期拘留される中、釈放されることを永遠に待つことになる場所。いつ出られるのかは全く分からず、それに友達もできるかどうかは分かりませんでした。

入国者収容施設の外での日本生活で、ほとんど知らなかった人々とのつながりを彼は維持することができたのでしょうか?彼はナイジェリアの家族とのコミュニケーションから、永久に遮断されることにさえなるのでしょうか?ガブリエルがこれから彼の「家」となる部屋を見つめていた中、頭の中は心配と不安で溢れていました。ガブリエルにできることは、状況が変わることと、また物資がほとんどない完全に未知の場所にいる中、お金、食べ物、そして基本的な衛生状態が与えられるようにと祈ることだけです。この時点では、入国者収容施設にあるこの小さな部屋にどれくらいの期間いるのか知る方法は、ガブリエルにはありませんでした。
3. 収容から釈放まで
3.1. 入国者収容所 ー 決して終わることのない「待つ」という生活の始まり
「収容」という言葉を聞いた時、あなたはどんなことを思い浮かべますか?「収容」の一般的な定義は、犯罪に関与、または犯罪を犯したと疑われる人を拘留、収容する事です。それらの人々は罪の重さに応じて投獄されたり、釈放されたりしますが、入国者収容所、特に日本の入国者収容所は「収容」という言葉が表すようには機能していません。世界中にある収容所と同じように、日本にある収容所では違法移民、外国人犯罪者、難民申請者を収容しています。しかし、日本の入国者収容所は、難民申請者の取り扱いにおいて多くの人道的問題があることで知られています。一度難民申請者が適切なビザを持っていないことが判明すると、彼らは収容期間について何も知らされないまま収容所に入れられてしまいます。さらには、難民申請者の基本的人権は奪われ、彼らの自由は完全に剥奪されてしまうのです。

日本の入国者収容所は、法務省の一部である出入国在留管理庁によって運営されています。日本には計16の収容施設と、3つの長期間に渡る入国者収容所があります。2018年には、1246人の外国人が収容されており、そのうちの46%が難民ビザを認定されていません(日本難民支援協会)。現在難民申請をしているうちの一人が、ガブリエルです。彼は2012年から、法務省入国者収容所東日本入国管理センターと東京出入国在留管理局の2つの施設に収容されました。ガブリエルはこれらの入国者収容所が品川と茨城に位置していることから、品川収容所と茨城収容所と呼んでいます。ガブリエルは収容された難民申請者として、入国者収容所での生活について語り、入国者収容所での憂鬱な時や経験が永久に彼の記憶を支配していると語りました。

まず最初に、ガブリエルは異なる入国者収容所の制限的な特徴について話してくれました。入国者収容所はいくつかの棟に分かれていますが、収容者達は他の棟にいる収容者達と交流を持つことは禁じられています。ガブリエルが品川の入国者収容所に収容されていた時、彼は他の4人の収容者と一緒に一つの部屋に入れられました。部屋にはシャワールームが付いていましたが、洗濯は棟の共有スペースで行っていました。洗剤や洗面道具などの生活必需品は入国者収容所で提供されていなかったので、ガブリエルのように何も持たずに収容された難民申請者にとっては特に困難なことでした。金銭的に苦しい状態にあるにも関わらず、彼らは建物内にあるコンビニエンスストアから日常品を購入する為にお金を使用しなければなりませんでした。何か購入する際は入国者収容所の職員に頼む必要がありました。入国者収容所で提供される食事は、異なる文化的背景のある人々にとって十分配慮された食事でないため、時に収容者はコンビニエンスストアから食べ物を購入するように頼まなければならない場合もありました。また、毎日質の悪い食事のメニューが繰り返されるため、収容者はコンビニエンスストアから食べ物を買うことを余儀なくされました。
ガブリエルはまた、電話のプリペイドカードが高価であることも話してくれました。入国者収容所には収容所の外にいる家族や友人、難民申請者の支援団体と連絡を取るための電話ブースがあります。収容者は電話をかけるために2枚のテレフォンカードを購入する必要があり、両方合わせて5200円します。入国者収容所に収容されているすべての人が犯罪者や服役囚でありません。しかし、なぜ入国者収容所がこれほどまでに刑務所と変わらない環境なのでしょうか?なぜ収容者に最も基本的な生活必需品が提供されないのでしょうか?なぜ彼らは食事を自分たちのお金で購入しなければならないのでしょうか?なぜ電話のテレフォンカードがそれほどまでも高価なのでしょうか?そして一番重要なことに、ガブリエルのように着の身着のまま何も持たずに入国者収容所に収容されるようになった難民申請者がこの様な困難を経験しなければならないのでしょうか?

次にガブリエルは入国者収容所での彼の生活がどの様な物であったか、そして、収容者の自由がどの様な方法で制限されていたかについて話してくれました。入国者収容所でのガブリエルの一日は職員が収容者を起こすために歩きまわる午前7時に始まり、彼は自分の部屋で少しのエクササイズをします。入国者収容所には共有の食事の部屋がないため、7時から7時半までの間でガブリエルは自分の部屋でルームメイトと共に朝食を取ります。朝食後、キッチンの清掃スタッフがプラスチックでできたスプーン、フォーク、ナイフとお皿を回収しに来ます。ガブリエルによると、収容者がキッチンの物を使用して自殺をしたことから、食事の際にはプラスチックのスプーン、フォーク、ナイフとプラスチックのお皿が使用されています。9時になると職員が収容者全員が部屋にいるか確かめ、誰も自傷行為をしていないか、自殺を図っていないか確かめるために点呼します。点呼の後に収容者は自由時間を与えられ、自分たちの部屋を離れることが許可されます。運動をするためや、他の収容者と交流する為に運動場に行く収容者もいますが、洗濯や訪問者との面会をしたり、電話ブースで家族や友人と連絡を取ったりと、自分の用事をする収容者もいます。ガブリエルはこの時間が唯一、どの様に難民申請をするかなど他の難民申請者と情報を交換する時間だったため、他の収容者と交流して過ごしていました。

そして12時から1時まではすべての収容者は自分たちの部屋に閉じ込められ、昼食を待ちます。1時から4時半までの間は再び自由時間が与えられます。ガブリエルは通常自分の部屋に残り、聖書や他のインスピレーションを与えてくれる本を読んだり、自分自身を前向きに保ち、再び自由を勝ち取れるようにお祈りをしたりして過ごしていました。そして4時半にガブリエルと彼のルームメイトはそれぞれ部屋に閉じ込められ、5時半に夕食が出されていました。その後はガブリエルは他の収容者がテレビを見る中ほとんどの時間を自分の部屋で本を読むことに費やしました。ガブリエルは何としてでも喧騒から離れていたい性格なので、彼は本を読んで過ごしていました。10時に消灯し、職員が自傷行為の警戒のためにパトロールを始めます。しかし、多くの収容者は通常直ぐには眠りにつかず、ガブリエルも遅くまで起きているか、本を読んでいました。このルーティーンは来る日も来る日も変わらず繰り返されるので、この入国者収容所内での制限された生活はガブリエルを貪るだけでした。
3.2. 収容と鬱 ー 同じ屋根の下にいる厄介人
ガブリエルと他の収容者にとって、入国者収容所はまさに悪夢のような場所です。ガブリエルは入国者収容所で過ごした月日を「日本での最も最悪な時期」と呼んでいます。それは彼が品川の入国者収容所に送られた日から始まりました。彼はそこに7か月間収容され、その後茨城の入国者収容所にさらに1年と1カ月収容されました。

彼の一番最初の入国者収容所の印象について彼はこう述べています。
「私にはそこで生活する希望が見えませんでした。自分自身にどんなことでも起きかねないと覚悟しました。来るものは来させよう、起こるものは起こさせよう。」
差し迫った将来に何が起こるのか分からず、金銭的な困難を抱え、ガブリエルは徐々にうつ病に悩まされてしまいました。
彼は入国者収容所で、他の3人のルームメイトと共有する為に窮屈なスペースを与えられました。ガブリエルにとって入国者収容所の収容者たちは多かれ少なかれ彼と同じような信仰心を持っていました。多くの収容者は外国人で、ガブリエルによると、「より良い環境を求めて母国を離れてきた人々」でした。ガブリエルも含めて、誰もが入国者収容所に閉じ込められるとは予想もしていませんでした。それでもなお、ガブリエルは他の誰もが平等であると考え、彼は常に他者に友好的に接し、トラブルを回避しようとしていました。それでも、彼は時に厄介な人々と直面しました。ある時には、常にガブリエルを怒らせ、彼のプライバシーを侵害してくる2人のルームメイトがいました。彼らは自分たちの宗教の祈りをする為に共有のスペースをたくさん占領し、ガブリエルが聖書を読んでいるときには電気を消すように言ってきました。ガブリエルは前向きでいるため、そして自分の将来に希望を持つために聖書を読むことが必要だったので、たくさんの時間を聖書を読むことに費やしました。聖書を読んでいるガブリエルに電気を消すようにいうのは、彼に希望を持つことをやめるように言っているのと同じだったのです。最終的にガブリエルは「私の強い信仰心が私を生かし続けた」と認め、その信仰心は聖書を読むことから来ていました。彼はどうにか聖書を読む環境を確保したかったので、妥協点を見つけようと職員を呼びました。
結果として、彼は読書をしている間は電気を付けていて良いと許可されましたが、ガブリエルが読書をしている間にまた電気が消され、最終的には彼のお気に入りの娯楽だった読書を諦めなくてはなりませんでした。これは、彼のルームメイトの1人が新しく入国者収容所に収容されたのにも関わらず、ガブリエルよりも優れているかのように行動し、ガブリエルに何をすべきか命令することを楽しんでいたからです。ガブリエルはこれ以上のトラブルを望んでいなかったので、ストレスを感じていましたが、最終的に諦めました。ガブリエルはこれらの人々を単純に「不愉快、無礼、失礼」と表現しています。喧嘩やトラブルを頻繁に引き起こす収容者は特別な棟に送られていましたが、ガブリエルのルームメイトは攻撃的でも、そこまで大きなトラブルを起こしていたわけではなかったので、別の棟には送られませんでした。そのため、ガブリエルは厄介な人と24時間行き詰っていました。ガブリエルは他人と仲良くするのが好きな気立ての良い人ですが、彼はこの様な厄介な人々と生活しなければならなかったので、大きなストレスを抱えていました。この様な限られた空間で毎日彼らと生活する事は自分自身の感情を抑圧するだけでなく、毎日の彼の精神的な健康を揺るがしました。ガブリエルはプライバシーの尊重と自由を求めていたのに、彼が得ていたものはストレス、制限、プライバシーの無さ、そしてトラブルだけでした。
3.3. 収容か投獄か?
「ハンガーストライキは入国者収容所におけるとても重大な問題です。何人かの収容者はハンガーストライキを行い、食事を取ることを拒みます。私が収容されていた時、何人かの収容者達がビザを与えられずに収容されるという考え方に対して抗議し、ハンガーストライキを起こしました。彼らは解放されたかったのです。彼らは収容されていたすべての収容者が解放されることを望んでいました。何人かの収容者たちは無条件の恩赦を望んでいたので、ハンガーストライキを起こしました。」
自分たちはもっと良い待遇に値すると信じる収容者により、ハンガーストライキは入国者収容所で頻繁に起こります。ハンガーストライキは「意味ない、何も達成する事はない」とガブリエルは述べています。
ガブリエルはハンガーストライキの背後にある動機は、「他の収容者を導かなければいけない」と考える収容者がいるからであると述べました。ガブリエルは彼らの選択・決断と自由を求める態度を尊重しますが、ストライキを主導した収容者たちに支配されることは嫌だったので、ハンガーストライキには一度も参加しませんでした。ガブリエルは、誰かに盲目的に従うことはマイナスの結果をもたらす可能性があり、「動物は崖から海に飛び降りたら死に直面するだけ」と付け加えました。さらに、自分がなぜハンガーストライキに参加しないのかもう一つの理由を教えてくれました。自分の健康を危険に晒したり、食べ物や、食事を準備してくれたキッチンのスタッフの貴重な時間を無駄にしたくなかったのです。入国者収容所でのハンガーストライキに対するガブリエルの態度は彼の平和を愛し、独立し、同情的な性格を反映しています。
ガブリエルはもう一つの入国者収容所に関する暗い真実を打ち明けてくれました。それは乏しい医療制度です。ガブリエルはいつも健康でいたので、人生の中で重い病気にかかることを心配したことはありませんでした。彼はこう説明します。
「入国者収容所では神に信仰を持つこと、そして自分の宗教を実践することが自分の命を救う術です。」

入国者収容所の外ではガブリエルは一度も健康保険を持っていたことがありません。しかし、彼は難民申請者が健康保険に加入するのが許可されていないことに関して、「危険で不平等」とコメントしています。

入国者収容所の中でガブリエルはずっと健康で過ごしていましたが、一度彼の友人の難民申請者が職員に彼の調子が悪いと伝えると、その職員はただ痛み止めを渡すだけで終わってしまいました。日本難民支援協会はこれに似たような事例を報告し、入国者収容所では、収容者がどんな体調であってもただ痛み止め与えられるだけで、収容者のための最も基本的なケアが欠けていると主張しています(日本難民支援協会)。それに加えて、入国者収容所では糖尿病等などの慢性疾患を持つ人々の支援が欠けています。この乏しい医療システムの結果、2014年には糖尿病を患ったカメルーン人の収容者が入国者収容所内の自分の部屋の床で苦しんで亡くなりました。ガブリエルによると、医療問題は警備員の「無知」によって処理されており、警備員は「緊急じゃない、待つことができる」とただ言い、収容者の病気についてあまりにも早く結論付けることが問題だと述べています。緊急であったとしても、入国者収容所内で医者に診てもらうには不必要に長い申請プロセスがあり、2日から5日ほどかかります。ガブリエルが品川の入国者収容所に収容されている間に1人の収容者が病気で亡くなったこともありました。
「収容者が医者に診てもらいたくても、迅速な対応はありません。職員らはもう少し待つように言います。それは不平等で、見ていて憤りを覚えました。収容者は迅速に医師の診断を受ける必要があります。」
ガブリエルが入国者収容所の医療問題について話してくれた時、彼は収容者がまともな医師の診断を受ける事の重要性について指摘していました。医師の一人として、彼は生涯で自分の健康を維持する方法を知っているだけでなく、患者が必要とする医師の診断の量を良く理解しています。ガブリエルは入国者収容所の乏しい医療制度によって引き起こされた身体的苦痛を経験した人々に同情を感じずにはいません。

最後に明らかにされる入国者収容所に関するもう一つの暗い真実は、自殺事件です。報道機関は時に悪名高い日本の入国者収容所での自殺事件を報道していますが、ニュースで報道されている自殺件数よりはるかに多くの自殺行為が行われていることは間違いなく衝撃的でしょう。ガブリエルが入国者収容所に収容されていた時に、フィリピン人の男性が自殺したと聞きました。さらに、ガブリエルが入国者収容所から解放された時期に、インド人男性とナイジェリア人の男性が自殺したと聞きました。2005年から2015年までの間で日本の出入国在留管理庁の制度で14人の死が報告されている事実を見れば、収容者の自殺はもう稀なことではありません。ガブリエルは入国者収容所の制度は収容者を「極限の鬱状態」まで苦しませたと言って、現在の制度を批判しています。ガブリエルは自殺した人々に共感し、自殺の誘惑が強いことを理解していることを認めました。ガブリエルはこう表現しています。
「被収容者達が自殺する原因が何であれ、非難されるべきものです。私は自殺を図った人を非難したり、責めたり、叱ったりする権利はない気がします。」

ここまでくると、入国者収容所が刑務所のようであると疑問を持つのは難しいことではありません。ガブリエルは自分の経験と他の収容者達の経験に基づいて、入国者収容所を「刑務所」と呼ぶことに躊躇していません。収容期間がいつ終わるかわからないまま、入国者収容所に収容された難民申請者達はただ座って、ただ待つ以外何もする事がありません。これはガブリエルにも当てはまりました。彼はこの時点で自分の最終的な目標は自分自身を収容から解放する事でした。しかし、より多くの課題がガブリエルにのしかかってくることを誰が想像できたでしょうか?
「入国者収容所での生活は、生きていくための自由と機会が奪われるので、身体的にも精神的にも拷問でした。今は入国者収容所からは解放されてはいますが、私はまだ難民認定されていないので、まだ刑務所にいるような感じです。私はまた自分の人生を歩み、旅行できるようになりたいです。」
3.4. 希望的な未来、まだ遠い道のり
ガブリエルは入国者収容所で収容されていた時、常に自分の将来を心配しなければなりませんでした。初めのうちは、彼の入国者収容所での生活は不確実性に満ちていましたが、彼が望むことができたのは、入国者収容所から解放され、自由の名のもとに難民ビザを取得することでした。それでも、彼は刑務所のような場所に閉じ込められたという事実を考えると、ガブリエルは何をする事ができたでしょうか?多くの他の難民申請者と同じように、ガブリエルが入国者収容所に連れてこられた時、彼は困惑し、恐怖心でいっぱいでした。さらに新しい収容者として、彼は難民申請に関するシステムや手続きについて何も知らなかったのです。結局のところ、入国者収容所は彼に難民に関する情報を提供してくれず、入国者収容所の職員は尋ねられない限り自発的に何の情報も与えてはくれませんでした。しかし、ガブリエルは幸いにも、仲間の収容者やボランティアグループとの繋がりが、情報を得るひとつの方法であると見つけることができました。ガブリエルが収集した情報を基に、自分が自由だと考えたものに向かって行動することができました。もちろん、日本で適切な難民ビザで自由な生活を送ることは難民の理想的な未来です。しかし、ガブリエル自身でさえ、誰もそのような自由を得る為に何が必要か知りませんでした。
3.5. 大きな瞬間に向けての道のり
「私はもう少しで生きる望みを失うところでしたが、私の強い信仰が私を生き続けさせました。私は入国者収容所から解放されると信じていました。私が解放された時、それはまさに奇跡のようでした。」
ガブリエルは入国者収容所にいる間、彼の宗教への信仰がどの様に自分に将来の希望を与えたか語りました。敬虔なカトリック教徒として、ガブリエルは聖書を読むのに多くの時間を費やし、宗教そのものへの信仰は常に彼のための道徳的支援の大きな源となりました。収容期間中、彼は毎日の熱情的な祈り、聖書の読書、そして自分たちが解放され、最終的に日本に住むためのビザを与えられると強く信じる必要性について、仲間の収容者を励ますことから多くの強さと希望を得たと語りました。ガブリエルは前向きな考え方を維持し、人々に親切にし、彼らを助ける為に努力しました。他の収容者がハンガーストライキをしているとき、彼は自分たちの為に料理を作ってくれた人々に感謝の気持ちを持ってハンガーストライキには参加しませんでした。新しい収容者が入国者収容所に収容された時には、ガブリエルは自分の友人がしてくれたように、彼らと難民に関わる情報を共有しました。
ガブリエルは善良な性格の持ち主なので、当然のことながら、しばしばリターンとして多くのサポートと助けを受けることができました。彼の仲間の収容者達との友好関係は彼の人生で非常に重要な役割を果たしました。入国者収容所に収容された当初はガブリエルは収容所で何をすべきか全く分かりませんでした。しかし、幸運にも、彼と難民に関する情報を自分と共有してくれる寛大な収容者に出会うことができました。ガブリエルは初め、難民認定を受けるために難民申請をする事を目指しましたが、難民認定されるのには何年もの年月がかかることを知って、ガブリエルは仮放免を受け取ることを入国者収容所での自分の目標に設定することに決めました。

仮放免とは、収容からの救済を提供する仮解放の制度ですが、いくつかの制限があります。まず、2カ月ごとに出入国在留管理庁に行き、仮放免許可を更新しなければいけません。そして、無断で自分が住んでいる県から外に出ることもできないのです。仮放免には、解放時に滞在する場所を見つけること、保証人がいること、自分で最大30万円の保証金を払うという3つの条件がありますが、ガブリエルはこの3つの条件を満たさなければいけないことなど予想もしていませんでした。どれも簡単に満たせる物ではなく、ガブリエルは「長い苦労」であったと述べました。

幸いにも、ガブリエルは入国者収容所で優しく、寛大で協力的な友人に囲まれていました。彼によると、最初に仮放免の申請中に途方に暮れてしまった時、仲間の収容者の1人がボランティアグループに連絡するのを手伝ってくれ、彼が滞在する場所を見つけた保証人まで見つけることができたそうです。言うまでもなく、金銭的負担は仮放免を申請する収容者にとって最大の難点です。その後も、ガブリエルは仮放免の手数料を支払うことができるように小さいながらも貢献をしてくれた仲間の収容者に助けられました。とは言っても、長い苦労でした。1年8カ月という待ち時間はガブリエルにとって永遠に終わらないかのように思えました。そして遂に彼自身が「大きな奇跡」と呼ぶ物を手に入れたのです。
しかし、奇跡のように思えたのは一瞬のことでした。ガブリエルは自分の苦労はまだ終わってないと気が付き、入国者収容所の外で待ち受ける困難はまだ来ていなかったのです。ガブリエルはこれらの思いは自分の記憶から消すことができませんでした。ガブリエルはため息を吐きながらこう説明しました。
「入国者収容所の外で生き延びていくのもとても大変なことでした。入国者収容所の中では、自由やプライバシーはありませんが、屋根、食べ物、お風呂に入る場所はあります。入国者収容所の外では、自由とプライバシーはありますが、生活していくこと、滞在する場所を見つける事はとても大変です。解放されても、路頭に迷った状態でした。」
仮放免をされたのにも関わらず、ガブリエルは生き残るための支援をほとんど受けませんでした。彼は認められた難民と難民申請中の庇護希望者に対する出入国在留管理庁の制度の異なる扱いについて複雑な感情に直面しました。仮放免はガブリエルに最も有望な未来を保証しないかもしれませんが、それはガブリエルにとって最終的な計画であり、難民認定を受ける為の第一歩だったのです。ガブリエルはそれを達成する為に努力しましたが、彼は私たちにどんなサバイバルストーリーを語ってくれるでしょうか?どんな奇跡が彼を待っているでしょうか?
4. 収容所の外で生き残る術
4.1. 住居探し
ガブリエルはようやく2013年9月に仮放免を受け、入国者収容所から解放されました。仮放免で日本にいるため、まだ働くことはできません。尚、彼は生き残るために、利用可能な支援全てが必要になってきます。
ある被収容者に紹介された優しいボランティアの人が、ガブリエルがまだ収容所にいた頃に彼を尋ね、ガブリエルが経済的に安定するまで自分の家に滞在して良いと言ってくれていました。ガブリエルは収容所をそのボランティアの人と後にし、彼の家に滞在していましたが、6週間が過ぎた後、それ以上ガブリエルを泊まらせることができなくなりました。その結果、ガブリエルは1ヶ月半の間、ホームレスの生活を送ることになったのです。何をしたら良いのか分からず途方に暮れたガブリエルは、難民支援協会に毎日行くことにしました。その結果、難民支援協会が無料で提供してくれたアパートに3週間滞在することができました。しかし、3週間後、ガブリエルには再び住居がありませんでした。2014年1月に、難民支援協会はガブリエルを不動産業者に紹介しました。そこで、ガブリエルは1ヶ月分のみの家賃で良い物件の紹介を受けました。同じ月にガブリエルはその新たなアパートに引越し、今日までそこに住み続けています。

4.2. キリスト教の繋がり:体力と精神の維持
経験した全ての困難にも関わらず、ガブリエルは置かれた場所で生き残り、成功してきました。収容所に入る前から、ガブリエルは聖イグナチオ教会でホームレス支援のボランティア活動に参加しています。毎週月曜の朝、彼らはホームレスのためにカレーライスを作ります。そこで、ガブリエルは他のボランティアの人とカレーを食べていました。ガブリエルが入国者収容所にいたときに支えてくれたキリスト教徒の女性は、このカレーの炊き出しで出会ったのです。ある日、彼は自分の難民としての経験を記事に書いて出版することを友人に勧められました。このことを振り返り、ガブリエルは次のように話します。
「その話があったので、炊き出し班のリーダーに話してみたんです。そしたらある雑誌に話を持ち込んでくれました。そういう訳で、私の記事が雑誌に掲載されたんです。」
彼の記事が掲載された一年後のある日、その記事を見たあるキリスト教徒の女性から電話がありました。彼女は、彼に毎月の経済支援をしたく電話をしてきたのです。最初は、彼女は彼に、「どのぐらいの額がよろしいですか?現在はどのぐらいの経済支援が必要ですか?」と聞きました。ガブリエルはその言葉を信じられず、また謙虚すぎてすぐに答えることができませんでした。貪欲な人だと思わせたくなかったからです。彼が答える前に、女性は彼の銀行口座番号を聞いてこう言いました。「最低1年間、私はあなたに毎月約3万円を援助します。」彼女の約束通り、支援は1年だけだとガブリエルは思っていましたが、実際に受けた支援は予想を遥かに超えたものでした。

ガブリエルはこの女性を「神様が送り出した」女性だと言っています。すなわち、彼が支援を一番に必要としていた明確な瞬間に、神様が彼を助けるためにその女性を送り出したと彼は信じているのです。更に具体的に説明すると、彼がボランティアの人から(入国者収容所にいた時にも)受けてきた支援は食べ物や衣服などの日常用品だったため、このような経済支援を受けることは今までなかったのです。彼女はガブリエルの生き残りにとって重要かつ不可欠な人物になりました。また、このクリスチャンの女性がガブリエルについての記事を読んだ後、自ら彼に連絡したのもまた珍しいことなのです。たとえ困っているのを知っていても、誰かを助けるために行動を起こす人はそれほど多くありません。ガブリエルを見つけた女性は、彼の人生へ精神的に分かち合い、彼が不自由な状況でどれほど苦しんでいるかに思いやりを持ち、彼の前向きな性格のために彼を支援したかったのです。そのため、助けの手を差し伸べるように動かされました。彼女は行動を起こし、切実に困窮し永久に貧困に陥る寸前の難民とつながり知り合うようになりました。ガブリエルは、お金はとても貴重であるものなため、彼や他の難民にお金を与える人はあまりいなかったと言っていました。彼は、このクリスチャンの女性が暗闇の中で明るく暖かい光のようにガブリエルに手を差し伸べたように、より多くの人々が行動を起こし、切実に必要としている難民を経済的に支援するよう励まされるべきだと考えています。

すなわち、ガブリエルが入国者収容所に拘留される前にカレーの炊き出しに参加していなかったら、他の人とつながることはなく、記事を通して彼の話が聞かれ、経済的に支援されていることもなかったのでしょう。

また、ガブリエルは毎週日曜日に行く聖イグナチオ教会の聖歌隊にも参加していました。ボランティアグループや教会との小さなつながりの中で、ガブリエルは自分がいる場所で希望を持ち、持続し、前向きであり続けることができているのです。そして、彼は自分の困難や物語を教会の人々と分かち合い、共同体の一員となり、必要とされ、信仰の中で霊的な励ましを受けることができています。ガブリエルは、教会の会員との交わりのおかげで、耐え続けることができていたのです。ポジティブでいることはガブリエルにとって非常に重要なものです。悲惨な状況に直面したときに、乗り越えるのにいつも役に立ってきました。また、ガブリエルがまだ入国者収容所にいた時に支援してくれていたクリスチャンの女性は、釈放された後も多額の支援をし続けてくれました。以前ほどの支援は難しくなっても、彼が経済的に安定しているかどうかを確認するためにいくつかの方法で、2020年の2月までサポートし続けました(彼女は合計3年半彼を支えました)。
4.3. ガブリエルを30年間支えてきたものと彼の生存観
ガブリエルは既に30年近く日本に住んでいます。しかし、彼は一度もナイジェリアに戻り家族に会えてはいません。この全てを念願に置いて、ガブリエルはどのようにして前向きにい続け、精神的に支えられ、そして生き残ることができていたのでしょうか?ガブリエルは、神への信仰があるため生き残ることができたと語り、その強い信仰が唯一の理由だと話してくれました。
「私の主イエス・キリストが私の弁護士です」
イエスと共にあれば何事も乗り越えられる(ピリピ人への手紙4章13節)と信じているガブリエルはカトリックでいることに誇りを強く持っており、信仰なしには今ここに立ててはいないと感じるそうです。
また、ガブリエルは心と体の健康を維持している限り、すべてを克服することができると硬く信じています。これについて、聖書の箇所を私たちに教えてくれました。それが詩篇91篇です。
詩篇91篇 1 いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は 2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。 3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。 4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。 5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。 6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。 7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。 8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。 9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、 10 災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。 11 これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。 12 彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。 13 あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。 14 彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。 15 彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。 16 わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。
ガブリエルは、毎日日本にいる間、特にもうこれ以上生き残ることができないと感じる時に、この祈りを祈ってきたと述べています。彼は、この詩篇を祈ると、全ての病気や危害から確実に守られるだろうと信じています。この箇所を毎日信じ、自分の人生を生き続けること、健康を維持し続けるためへの希望、継続的な忍耐力、そして信仰を得てきました。
やがてクリニックを開業したい医師であり、困っている人を助けたいという強いクリスチャンであるということから、あきらめずに彼は日本での生活を送ってきています。ガブリエルは、日本に住んできた何年にも渡り、いくつもの困難を経験してきました。彼はナイジェリアに戻るのには十分な資金がないかもしれないという過酷な現実に直面しただけでなく、基本的な生活必需品から切り離され、恐ろしく巨大なテロリストグループに殺されると脅され、愛する家族の何人かは実際に攻撃を受けたり殺害されたりし、アパートから追い出されました。そして、日本に住むということだけを政府に許可されるために入国者収容所で永遠と待ち続けていた時に、尊厳を奪われました。これら全ての経験が、ガブリエルにどう残りの人生を生きていきたいかについて重要な教訓を与えたのです。

日本での滞在の中で最も難しいことの1つは、ビザが完全に承認されることを待っている間に、経済的に安定した(英語を教えるアルバイトの仕事とは別の)正社員の仕事を探していたときだと彼は言っていました。ガブリエルがこれまでの苦労を耐えてきたため、これからは、日本での他の人々の仕事探しの手助けをしたいと考えています。日本では「お金は貴重なもの」と強く感じられており、過去にボランティアの人々から物資の支援は受けてきましたが、金銭的な支援はほとんどなかったからです。彼は今、(彼がまだ入国収容施設にいる間に他の被収容者を支援したときのように)金銭面で苦労している他の人を助け、ビジネス界の大物になりたいと思っているそうです。

5. 現在(2020)
5.1. ガブリエルの見る日本
多くの人が持つ予想に反して、ガブリエルは日本を独自の入国管理システムを持つ独特な国と考え、自分自身が置かれている現在の状況に関してありがたく、満足しています。ガブリエルが今まで日本で経験してきたことを振り返ると、なぜ彼がこんなにも前向きでいられるのか理解するのが難しいことでしょう。ガブリエルは日本の入管制度、そして日本人に対して何も恨みを持っていません。
「まず第一に、私は日本政府を褒めたいです。なぜなら、他の先進国に比べて日本の入国管理システムは最も人道的だからです。」
ガブリエルがこの様に語る理由として、日本政府は強制的に難民申請者を母国に送還せず、彼らに対して難民申請が却下された場合に難民申請を再申請する事を認めています。さらに、彼は出入国在留管理庁が新型コロナウイルスの流行を考慮して仮放免下にいる難民申請者の更新期間を延長したことについても触れていました。ガブリエルは難民申請者の一人としてこの対応に感謝しています。日本の入国管理制度が多くの難民申請者を受け入れていないという事実に関して、ガブリエルは難民を受け入れることの複雑さや政府として難民受け入れに厳しくならなくてはならないことに理解を示しています。しかし彼はまた、日本政府は将来の変化にもっと寛大になることができると信じています。ガブリエルのこれらの考えは、彼の入国管理制度の観点だけでなく、さらに30年近くにわたる日本での滞在を経て出会った人々の経験からも来ています。この時代における終わりのない困難を乗り越えるためにガブリエルは日本人の同情心や親切心で成り立っている支援を見つけることができました。
ガブリエルはたくさんの困難を経験してきましたが、未だに自分に対して温かみや親切心を見せてくれた日本人を信じたいと思っています。しかし、これは彼が日本で経験してきたことすべてが良い経験であったと言うわけではありません。一つの例として以前「人生で最も最悪な日」と表現している日があります。彼の大家、弁護士、そして職員が一体となってガブリエルの長くに渡った入国者収容所での生活の始まりに寄与していました。大家や弁護士の行動については理解できる範囲でありましたが、ガブリエルは彼らの状況の対処の仕方に悲しみました。ガブリエルは彼らにその時の彼の人生の状況に対して理解を示してほしかったです。彼は多くの日本人はもっと思いやりを持ち、もっと理解を示すことができると信じていまると語っています。ガブリエルは日本人を信用しています。なぜなら、彼が出会った多くの日本人は彼の状況を知っていても彼を差別する事をしなかったからです。難民支援者や彼の周りで生活していた人々はガブリエルに誠実でした。例として、日本で仮放免ビザの難民申請者として生活する為に、ガブリエルは生活費と彼の仮放免ビザの更新を死に行くための交通費を払うお金が必要です。しかし、彼は労働許可が下りていないので働くことができず、生活のためにお金を稼ぐことができないため経済的支援が必要です。NGO団体や教会、この記事で触れられているキリスト教徒の女性がガブリエルを支援しています。
5.2. ガブリエルの現在の生活
現時点で多くの人々はガブリエルを自分の感情を我慢し、前向きに物事を捉えようとしている一人の難民申請者と捉えているかもしれませんが、実際のところ、彼のポジティブさと優しい心の性格が彼の日本での生活を支えているのです。ガブリエルの温かい性格は彼が現在入国者収容所に収容されている難民申請者の仲間を支援する善意活動に見ることができます。入国者収容所での経験から、ガブリエルは難民申請者にとってお金がどれだけ大切であるか認識しています。前の記事でも述べられているように、入国者収容所では様々な理由でお金が必要となります。慈善活動を運営することにより、ガブリエルは経済的に難民申請者を支援したいと考えています。彼はまた、品川、茨城、横浜にある入国者収容所を訪れて収容者に希望を与えたいと考えています。収容者の支援をする一つの方法として、1000円から2000円の少額のお金を提供しています。これは入国者収容所に収容されている難民申請者の生活を支援するだけでなく、入国者収容所から出た後の生活の支えにもなります。ガブリエルが収容者に対して与えられることは限られてはいますが、これらはガブリエルにとって簡単な課題ではありません。

仮放免中の難民申請者としてガブリエルは常にお金を得る方法があるわけではありません。なぜなら、彼自身も支援者達からの寄付によって生活しているからです。ガブリエルにとってこの額のお金を寄付するというのは彼の生活を支えているお金を共有するという意味なのです。彼はこのように望んでいます。
「難民申請が許可されたら、私はこの慈善活動を広げたいです。収容者の支援だけでなく、日本のホームレスの支援もしたいです。」
この望みを実現する為に、ガブリエルは現在彼を経済的に支援してくれるNGO団体を探しています。
日本のコロナ禍は難民申請者達の生活に大きな影響を及ぼしています。しかし、コロナ禍の深刻な状況においてガブリエルは今まで以上に健康で前向きに生活しています。彼の生活上の困難は現在の状況に大きく左右されています。ガブリエルが経験した一番の困難は彼の仮放免のビザの更新をすることです。当初、日本全土において新型コロナウイルスの感染率が増加し始めた頃にガブリエルは仮放免ビザの更新をしに行かなければいけませんでした。ガブリエルはこのことに不安を持つようになりました。なぜなら、もし彼が出入国在留管理庁に行くとしたら、新型コロナウイルスに感染してしまうかもしれないからです。医療費が限られている難民申請者としてこれは大きなリスクでした。しかし、更新の一カ月前の2020年の4月に出入国在留管理庁から電話を受け取り、新型コロナウイルスの安全性を考慮して彼の仮放免ビザの更新期間を延長すると言われました。出入国在留管理庁から受け取った手紙には手紙を許可証明書として使用できると書かれていました。ガブリエルにとってコロナ禍において移動するのは困難であったため、彼はこの配慮に感謝しています。新型コロナウイルスの感染が拡大している中で仮放免ビザを更新する事をもし強いられていたら、ガブリエル彼自身の健康を危険に晒すだけでなく、彼の周りにいる人々の健康も危険に晒すことになっていました。難民申請者は生活していくために多くの人々の支援に頼っているため、このようなストレスの多い状況において難民申請者にとって力強く生活するのは簡単なことではありません。
しかし、ガブリエルはこの状況下において彼に手を差し伸べてくれた人々のおかげで希望を持ち続けることができました。パンデミックによって日本社会は厳しい状況に置けれていますが、難民申請者の支援に努めているNGO団体が複数あります。ガブリエルによると、RAIN(Refugee Association and Information Network)が移住者と連帯する全国ネットワーク(SMJ)や日本カトリック難民移住移動者委員会(J-CaRM)と連絡を取り、日本における難民申請者を支援しています。RAINがこれらの2つの団体に難民申請者の経済支援を頼み、政府からの一時給付金の10万円を受け取ることができない難民申請者に対して一度の供給で3万円の支援をしています。この支援はコロナ禍においてガブリエルやその他の難民申請者の生活を支援し、ガブリエルはこの支援にとても感謝しています。

5.3. 将来の計画
ガブリエルは多くの困難に圧倒されずに、将来難民として彼は日本で何をすることができるか、ポジティブに考えようと決めました。彼は成し遂げたいゴールを達成するための具体的な計画をすでに持っています。彼の最初の目標として適切な難民ビザを取得して、日本で生活し、働く権利を手に入れたいと思っています。今の彼の仮放免の状況は、彼に日本での労働の許可と永久の滞在の権利を認めていません。これらの障害があっても、ガブリエルは彼の夢である、彼の知識を用いて病気を治す自然療法クリニックを持つことを諦めていません。彼はこのように語っています。
「全体像として、私は自分の自然療法分野で自分自身に制限をかけるつもりはありません。私は世界で裕福なビジネス権力者になり、日本の高齢差別問題を解決したいです。」
ガブリエルの目標は日本の人々、難民申請者を支援することです。ガブリエルの故郷のナイジェリアでは人々は究極的に神を賛美します。ガブリエルの「愛」の力に対する信念は彼の信仰深さと友好的な性格に反映しています。彼は、キリスト教徒ととして、彼の努めのひとつはイエスキリストが他者を愛したように他の人間を愛することだと述べています。ガブリエルはキリスト教徒の信仰、自然療法の知識、そして今までの経験を使って人々を助けたいと考えています。
ガブリエルは人助けをする事が目標なので、自然療法のクリニックを開き、ビジネス権力者になりたいと思っています。この望みは彼が幼い頃から持っている物で、これは彼の母が家族の中で実践していた宗教的な教えに由来しています。ガブリエルの人々を助ける為の献身は彼の自然治療の研究、彼のキリスト教団体、そして彼の難民申請者の友人や、入国者収容所に収容されている収容者達との関わり合いの中に表れています。ガブリエルの献身さは彼の日本社会における年齢差別をなくしたいという情熱から来ています。ガブリエルは人々の可能性に制限をかける‘‘年齢‘‘へのステレオタイプ的考え方をなくすだけでなく、さらに、経済的理由でに追い出されてしまった人々を雇うことができるでしょう。「もし200歳の人が職を求めていたら、その人が歩くことができる限り、私はその人を雇います。」と彼は述べていました。ガブリエルは将来、年齢差別によって被害を受けた人々を助けられるように、また、常に人々にのしかかってくる社会的限界を越えて達成する方法を提供する為に多くの工場を持つことを想像しています。
ガブリエルの将来の計画が実現するには長い道のりのように思えるかもしれませんが、彼は成功の鍵は諦めないことが重要だと考えています。
「粘り強さと、一貫した希望を持つことで、私の夢はいつか叶うでしょう。」
ガブリエルの希望は日本での生活の多くの場面で強力であると証明されています。例えば、仮放免ビザの許可を待っているとき、難民ビザを待ち続けていること、他者に与えてきた支援、そして彼の決して諦めないという決意です。
5.4. ガブリエルの将来の願いと日本に向けたメッセージ
ガブリエルは現在の日本の出入国在留管理庁の制度に感謝していますが、彼はこの制度が将来的に修正され、難民申請の許可が下りるのを待ち続けている難民申請者達に変化がもたらされることを望んでいます。現在の制度では、難民申請者は難民申請を再申請する事が認められていますが、実際の難民受け入れ率は限りなく低いです。この現状は、ガブリエルを含む多くの難民申請者の日本での生活に困難を生じさせています。ガブリエルは日本政府が難民受け入れに関して慎重にならなければならないことは理解していますが、出入国在留管理庁の制度によってさらに悩まされている難民申請者達に慈悲を望んでもいます。ガブリエルは、多くの難民申請者はより明るい未来を求めて日本に逃れてきましたが、制度上の制限により、難民認定を入手するのが難しいと打ち明けました。これらの制限は、彼らが生活を維持する為に大きなリスクを犯さなければならない不安定な状況に繋がるか、彼らが直面する可能性があるとは想像でもできなかった不幸で予期せね結果に直面してしまう可能性があります。ガブリエルは入国者収容所に収容されることは受け入れられる‘‘罰‘‘であったとしても、これはなくなるべきであると信じています。ガブリエルは母国を離れ迫害の恐れから母国に戻ることができない難民申請者は平和な生活を送る機会を与えられるべきだと考えています。
ガブリエルは日本で30年近く暮らし、日本を自分が所属する場所と考えているガブリエルにとってこの思いは特に強いです。彼は、もしもボコ・ハラムが自分を脅迫することをやめても、日本に残り、ナイジェリアには‘‘訪問‘‘する事を主張しています。言い換えると、彼は残りの人生を日本で暮らしたいと望んでいるのです。もしもガブリエルの望みが叶ったら、彼は自分の将来の為により多くの機会を得ることができるだけでなく、彼の夢に向かって大きな一歩を踏み出すことができるでしょう。ガブリエルのこれらの願いは、日本社会や日本政府が難民の考えや願い、彼らの声を聞き、出入国在留管理庁の制度を見直すことで成し遂げられるかもしれません。
前述の通り、日本の難民問題についてあまり多く知られていません。ガブリエルはこう言います。
「私は日本人にもっと難民が置かれている現状を理解し、難民の状況についてもっと学んでほしいです。」
ガブリエルのメッセージや彼の願いが日本政府に取り入れられるために、彼は多くの人々が現在難民申請者がどの様に扱われているのかについて学び、何を変える必要があるかを真に理解する必要があると考えています。もし人々が難民申請者が置かれている状況を認識することができたら、彼らは制度の変化に向かってオープンになるだけでなく、また、難民申請者個人が生き残るために必要な特定な支援を提供することができるでしょう。さらに、ガブリエルは自分の経験談が人々に難民をより良く扱うべきであることを政府に訴え、現状の変化を促すために個別に行動を起こすことにつながることを望んでいます。そのため、ガブリエルはこのプロジェクトと難民申請者としての彼の経験談が日本人を啓発し、あまりにも頻繁に無視されがちな難民の状況に光があたることを願っています。
ガブリエルにとって日本で難民申請者として生活していることは決して簡単であったことはありません。彼は長い間、多くの悲痛な瞬間を経験し続けています。過酷な時期には彼の信仰心からの前向きな考え方と明るい未来を信じる考え方が、ガブリエルを30年間の間立ち上がらせ続けてきました。彼の経験談は難民問題、彼がどの様に困難を生き延びてきたか、そして未だ厳密な制限のある出入国在留管理庁の制度と日本の難民問題の悪循環の中をどの様に生き延びているのか、について私たちの目を開かせます。ガブリエルの経験談はそれだけでなく、自分の夢を求める人の考え方の力を示しています。彼の願いである、自分の経験談が日本の難民問題について日本人を啓発し、この終わりのない難民認定を待ち続けることに変化をもたらすことを願っています。