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「日本で警察を見ると…怯えてしまう。カメルーンでの記憶が蘇ってくるから。」
日本に住みはじめてから8年近く経った(2020年8月現在)今でも、ジェームズは日本で警察を見ると、母国カメルーンでの激しい暴力を思い出し、フラッシュバックに苦しんでいます。彼の心に深く刻まれたトラウマは、ジェームズがカメルーンの英語圏で生まれ育ったという事実が大きく関与しています。カメルーンの北西部に位置する英語圏にあるフンドン(Fundong)という町に生まれて以来、ジェームズはカメルーン政府からの不当な扱いと政府軍による武力攻撃に晒され続けました。そして、2019年の12月にはついに母国を逃れ、難民として日本へ避難することになったのです。彼がなぜ難民としてカメルーンを離れなくてはならなかったのかを知るためには、まずカメルーンの政治情勢を理解する必要があります。それではまず最初に、カメルーンにおける英語圏とフランス語圏の政治的分断に関する歴史に目を向けてましょう。

1. 英語圏とフランス語圏の政治的分断
「全てがフランス語圏の人々の手中にあり、カメルーンの英語圏の人々には政府のルールに従うという選択肢以外残されていない」
この言葉でジェームズが意味していることを理解するためには、カメルーンの政治的分断の歴史をまず学ぶことが必要です。カメルーンには、独立に関する論争から派生した、英語圏の人々とフランス語圏の人々の間に長きにわたり存在している言語的分断があります。フランス語圏の人々からの弾圧により、フランス語多数派の政府に自分たちの声を代弁されていないカメルーンの北西・南西地域に住む英語圏の人々は、「アンバゾニア」と呼ばれる新しい国を設立し独立することを求めている、とジェームズは言います。彼自身、英語圏出身としてこれまで政府や軍による多くの抑圧、不当な扱いに直面してきました。
1.1. 分断はどのようにして起こったか
「英語圏の人々は疎外されているこの状況に文句をいう権利さえない。『我々はフランス語圏の一部である』と定めた法の下では、私たちはただ沈黙の中で死ぬのだ。」
国全体の人口の約20%を占める英語圏の人々と、その残りである大多数を占めるフランス語圏の人々がカメルーンに混在している理由は、カメルーンの植民地時代まで遡ります。1916年から1960年までの間、カメルーンはフランスとイギリスによって統治されていました。植民地時代後は、イギリスの統治下に置かれていた南カメルーンの人々が1961年に住民投票を行い、ナイジェリアとフランス領カメルーンのどちらに属するかを決めました。連邦政府の設立と公用語としての英語の使用が前提の元、カメルーンの英語圏は多数派のフランス語圏に加わり、現在地理的にカメルーンとして認識されているものを作り上げました。しかしジェームズは「その約束は守られなかった」と言います。住民投票の際の前提条件にも関わらず、カメルーンは1972年に連合共和国となり、フランス語圏多数派の政府により大きなパワーを与える結果となったからです。1990年代には、英語圏の政党が憲法が改正されない限り独立国家となるという可能性を表示しました。英語圏とフランス語圏の人々はしばらくの間比較的安定した関係を保っていたにも関わらず、2016年には、英語圏内の学校や裁判所でのフランス語導入とフランス語圏の裁判官の指名に抗議した英語圏の人々により多くのプロテストが行われました。そしてこの抗議の波は、カメルーン内での紛争へと発展しました。「全ては、カメルーン政府に英語圏の法律と政府の改定を求める教師と弁護士から始まった」とジェームズは語ります。しかしながら、このプロテストに対しカメルーン政府は、市民の殺害や活動家の投獄を行うなど、とても残酷な形で応じました。ジェームズは今でも鮮明に、軍による恐ろしい攻撃を覚えており、「軍はどこにでもいて催涙ガスや弾丸を放っていた」と言います。政府の対応は英語圏の人々との緊張関係をより一層高め、反政府感情を煽ったに過ぎず、「英語圏の人々はとても長い間不当な扱いを受けていた…だから多くの怒りの感情が今日まで積もっているのだ」とジェームズは言います。政府に対する強い対立と怒りは結果的に、英語圏の独立を求める分離主義グループの出現を招きました。



カメルーンの北西・南西地域が英語圏となっており、2つの地域から成り立っていて国全体の人口の約20%を占めています。残りはフランス語圏で、8つの地域から構成されています。英語圏の人々は長い間、社会的、文化的、政治的、そして経済的な全ての面においてフランス語圏が多数派を占める政府により疎外されてきました。例えば、英語圏の人々に対する不平等な雇用機会は組織的なレベルでも明らかで、「英語圏出身の人々はあまり政府関係の仕事を与えられず、もはやそういった仕事に就くことが許されていない」とジェームズは言います。彼自身もまたフランス語話者が多数を占める中央政府から過去に不当な扱いを受けた経験があります。「かつて自身のお店を経営していたとき、私は常に政府に過度に税金を取り立てられていたのだ。税務官が私のお店にやってきて、過剰な税金を払うように脅すのだ」とジェームズは証言します。事実、Quartz Africaは2017年10月に、中央政府による投資プロジェクトにおいて英語圏内とフランス語圏内では出資額に大きな差があったことをリポートしました。英語圏の方がよりインフラ整備の必要性が高いのにも関わらず、二つの英語圏地域に与えられた資金は、ポール・ビヤ大統領の出身地であるフランス語圏の一地域よりもはるかに少なかったのです。
1.2. 「フランス語圏の人々も苦しんでいる」
守られることがなかった英語圏の憲法と政府の設立をはじめ、英語圏の人々による抗議の声を沈めるための中央政府による武力攻撃、フランス語圏との政治的分断による不平等な機会というように、ジェームズは多くの苦難を母国カメルーンで経験しました。それにも関わらず、彼はフランス語圏の人々に対し私的な恨みは持っていません。彼はインタビューの中で複数回にわたり、「政府の政策や政治的分断により苦しんでいるフランス語圏の人々もおおくいる」と言いました。ジェームズは決して、フランス語圏が多数派の中央政府により自身が被った苦しみに関して、フランス語圏の人々を差別したり責めたりすることはありません。なぜなら「起こっている紛争や対立は政府の責任であるから」とジェームズは言います。だからこそ彼は、日本で出会ったフランス語圏のカメルーン人に対しても、尊敬の念を持って接するのです。
なぜ英語圏の人々への不当な扱いに関してフランス語圏の人々を責めないのか聞かれたジェームズは、「フランス語圏の人々は英語圏に関する真の歴史について十分知らされていないからだ」と答えました。彼は続けて、カメルーンに深く根付く組織的な差別に触れながら、フランス語圏が多数派の中央政府がカメルーンにおける言語の分断についての歴史を故意に隠し、英語圏の人々を「下級の市民」とする考え方を定着させようとしていることを説明しました。

2. アンバ・ボーイズ
「アンバボーイズは彼ら自身の土地を求めて闘っている。彼らはただ、かつて自分たちに属していたもののフランス語圏の人々に盗まれたものを取り返したいのだ。」
2.1. 「アンバ・ボーイズは独立のために戦っている」
英語圏での教師や弁護士によって先導された平和的な抗議活動から始まり、2016年には独立を求める英語圏と、その抗議の声を武力行使で沈めようとした政府軍の間で多くの武力衝突が起こりました。植民地時代から英語圏の人々の中で蓄積された不満や怒りは「アンバ・ボーイズ」と呼ばれる分離主義グループの出現を招きました。アンバボーイズとは、カメルーンの英語圏の独立を求める若い英語話者の青年たちによって構成されたグループです。このグループの誕生のきっかけは、2016年10月に英語圏の教師と弁護士たちが中央政府に、英語圏の法律と政権を改定することを求め行った平和的な抗議活動にあります。「ゴーストタウン・ストライキ」が始まり、英語圏の地域は結束して学校、商店、その他公共施設を閉鎖しました。それにより、「私たち英語圏の人々は自分たちの扱われ方に不満を抱いていることを中央政府に訴えたかった」とジェームズはいいます。しかし、政府軍は市民を催涙ガスや弾丸で打ち、逮捕したり、またインターネットを遮断するなどしてストライキを沈めようとしました。英語圏の人々のストライキに対する中央政府の暴力的な対応は、英語圏の独立を求める声をさらに強めました。ジェームズは、「多くの人々が政府軍の攻撃により家族を失い、共に反撃することを決めた」と言います。2017年10月に、英語圏の青年たちが「アンバゾニア」と呼ばれる独立国家を宣言し、これによりアンバボーイズが結成されました。アンバボーイズの目的は、「フランス語圏から英語圏を離し、独立を勝ち取ることだ」とジェームズは語ります。アンバゾニアの独立が宣言されてから、アンバボーイズと政府軍の間の戦いは激化し、アンバボーイズの多くのメンバーたちは主にヨーロッパなどの他国へと逃れてました。ジェームズによると、海外へと逃れたメンバーたちも、「アンバボーイズの一員としてカメルーンの英語圏の人々の声が国際社会に届くように活動している」ということです。


2.2 「私は毎日、アンバ・ボーイズと軍の両方から圧をかけられていた」
とても複雑な状況に追い込まれたジェームズは、アンバボーイズからの強制的な勧誘の圧を受けると同時に、政府軍からの攻撃の危険とも隣り合わせでした。アンバボーイズが武力行使をしながらアンバゾニアの独立をより積極的に主張するにつれて、アンバボーイズと政府軍との戦いは激化しました。そしてそれは、ジェームズを含めた若い英語圏の青年たちを攻撃するより多くの理由を政府軍に与えることとなりました。
英語圏の憲法と政府の設立を目指して、アンバボーイズはこれまで武力を行使しながら政府軍と闘ってきました。自らが主張しているアンバゾニア国家を存続させるために、アンバボーイズにとって新たなメンバーを勧誘し確保することはとても重要なポイントとなっています。しかし、ジェームズが「アンバボーイズは英語圏に住む一般の市民を強制的にグループに加入させようとし、それを拒否する者には金品を要求する」と証言するように、アンバボーイズの勧誘の方法には問題があるという見方もあります。万が一、勧誘を拒む市民が金品を提供できない・したくない場合には、「その市民にはグループに加入するという選択肢しか残されていない、さもないと殺されてしまう」とジェームズは言います。ジェームズ自身も、これまで幾度となく加入を強制されてきましたが、彼は自身のお店の商品をアンバボーイズに提供することで加入を拒んできました。
さらに、アンバボーイズが英語圏の若い男性から構成されているという事実により、ジェームズの命が軍からの攻撃に晒される危険がより高くなりました。「軍は、英語圏の若い男性は誰でもアンバボーイズの一員、つまり政府の敵、そしてフランス語圏全体の敵だと考える」とジェームズは言います。ジェームズ自身はアンバボーイズに加わったことがないものの、英語圏に住んでいる若い男性であるというだけで、軍が彼を攻撃するのには十分な理由となってしまうのです。ジェームズは、「いつ、どこでも銃で撃たれる可能性がある。なぜなら、軍にとって英語圏の青年は誰でもアンバボーイだからだ。」と強調します。
2.3. 「アンバ・ボーイズの目的は支持する。ただ、彼らの戦い方には恐怖を感じる。」
強制的な勧誘方法と武力攻撃を用いながら英語圏の独立を目指して戦っているアンバボーイズに対して、ジェームズは「恐怖」と「尊敬」という相反する感情を抱いています。アンバボーイズの最終的なゴールに関しては、ジェームズは「アンバボーイズはヒーローだ。なぜなら彼らは英語圏の人々を疎外から救い、独立を求めて闘っているからだ。」と言います。そして、「アンバボーイズは独立という目的のためなら死さえもいとわない。彼らは死を恐れていないのだ。自分たちの人生を捧げ、いつ政府軍に撃ち殺されてもおかしくないということがわかっていても、彼らは決して闘うことを止めないのだ」と強調します。アンバボーイズが目指していることに尊敬の念を表しながら、ジェームズはさらに「英語圏の人々は、アンバボーイズが政府軍との戦いに勝利することを願っている」と付け加えます。しかしながら、アンバボーイズが一般の市民を強制的に加入させようとしていることに関しては、恐怖の思いを抱いており、「アンバボーイズの強引な勧誘の仕方は英語圏の一般市民を怖がらせている。それにより、多くの住民は他の街に逃げた。」とも語っています。アンバボーイズが結果的に英語圏の地域に深刻なダメージを与え、政府軍との抗争を招いたことにより多くの住民の命を危険に晒したという点を認識した上で、ジェームズは「私にはそのような酷いことはできない。彼らのやり方で闘うことなどできない…」と言います。
アンバボーイズに対するジェームズの複雑な思いは、まさに独立における英語圏の複雑な実情を表しています。多くの英語圏の人々が、独立を勝ち取るというアンバボーイズの最終的な目標を指示する一方で、人々はまた非常に残酷なアンバボーイズと政府軍の戦いの間に挟まれ、最も大きな代償を払わされているのです。事実、2018年の中頃からアンバボーイズはジェームズの故郷であるフンドンという村を無人化させるという事態を引き起こしました。その年の始めに、アンバボーイズはフンドンを侵略し、ゴーストタウンストライキの期間中に政府軍に協力した疑いをかけられていた人物がオーナーを務めていたレストランに火を放ちました。アンバボーイズがレストランに放火した直後に政府軍もフンドンに侵入し、アンバボーイズと結託したとして8人の村人を殺害しました。この出来事がフンドンの治安を悪化させ、多くの村人が他の村に逃れました。

3. 死を覚悟した瞬間
「私はあと一歩のところで死んでいた」
アンバボーイズと政府軍による英語圏の独立をめぐった緊張関係はジェームズの命にかなりの危険をもたらしました。「私は政府軍によって、主に4つの攻撃を受けた」とジェームズは言います。彼がカメルーンから逃れる前に、ジェームズは命に関わる差し迫った脅威に直面した、4つの政府軍による攻撃を受けました。そしてこれらの出来事が、身の安全を求めてジェームズが母国カメルーンから逃れることを決定付けさせたのでした。
3.1. 2017年5月4日:「ベロ(Belo)ではなくフンドン(Fundong)に生まれたことが私を救った」
「深刻な銃撃が再び始まった…そして銃撃が始まってから三日目に少し落ち着いてきていたので、私は一緒に商店にいた私の一番下の妹と息子のうちの一人を連れてマーケットを離れた。」しかし、11時ごろに大規模な銃撃が始まり突然状況が悪化しました。ジェームズは、「街が銃撃に耐えられなくなったので、みな店を閉め隠れられそうな場所に走って逃げた」と言います。ジェームズは、妹と息子と一緒に他の地区に避難することを決めました。「私たちは自分の家から遠い別の地区に行き、そこでほぼ丸一日過ごした」と言います。17時ごろ、ジェームズの妻が電話をかけ、もう外にでても安全だから家に帰ってくるように彼に伝えました。そして彼らが家に向かって車を運転し、自分たちの地区にちょうど入ったとき、「我々は軍に捕まった」とジェームズは言います。軍人たちは、ジェームズ、彼の妹、そして息子全員に車から降りるように命令し、「頭を覆って地面に伏せるように」指示しました。「私は軍人に額に銃を突きつけられながら、無理やり服を脱がせられそして道路にひざまづけられた。彼らは私に泥の上をそのまま転がるように命じた…それはただただ地獄だった。」とジェームズは証言します。そして、軍人たちはジェームズに自分の車を開けるように命令し、車の中の所持品を調べ始めました。「私の妹と息子は…泣き続けていた」とジェームズは悲しそうに伝えます。車の中を調べた後、3人はようやくその場を去ることを許されました。「私はあと一歩で死ぬところだったと思う。」
軍人たちは、アンバボーイズを特定するための目印としている特別なチャームや切り傷などがジェームズの体にあるか調べるために、彼の服を脱がせました。カメルーンの英語圏に住む若い男性であるがために、ジェームズは残酷にもフランス語圏多数派の政府による暴力の標的となってしまいました。そしてそれは、彼だけでなく彼の妹と息子の命さえも危険に晒したのです。

4. 避難を決意
「日本で警察を見ると…怯えてしまう。カメルーンでの記憶が蘇ってくるから。」
英語圏の分離主義者とフランス語圏が多数派の中央政府の間の対立関係による、多くの差別と暴力を経験した後、「身に危険が及ばない」場所を求めてジェームズは日本へと逃れてきました。日本に来てから約8ヶ月が経過したにも関わらず(2020年8月時点)、彼の心に深く刻み込まれたトラウマは、今でもジェームズをカメルーンでの武力攻撃のフラッシュバックから苦しめています。長年続く英語圏とフランス語圏における分断から派生した、アンバボーイズと政府軍の激しい戦いに巻き込まれ、ジェームズには自身と家族の命を守るためにカメルーンを逃れるという選択肢しか残されていませんでした。彼が受けた身体的、精神的苦痛に関わらず、ジェームズはカメルーンの政治情勢を両方の視点から見るように努めています。「我々英語圏の人々は沈黙の中死んでいる。しかし、フランス語圏の人々も苦しんでいるのだ。」「アンバボーイズの目的は指示するが、やり方には恐怖を覚える。」政治的対立における両者の見解を理解しようとすることで、難民申請者として日本で暮らしている間もジェームズは常に、妻と6人の子どもたちの安全を確保する道を模索しています。母国カメルーンでとても苦しい思いをしたにも関わらず、「証拠が足りない」という理由で日本で正式に難民認定を受けることは彼にとって難しい状況が続いています。とても複雑で不安定な政治情勢に巻き込まれたジェームズにとって、彼が難民であるという写真やその他の形式の具体的な「証拠」を提示することは極めて困難であり、これは他の多くの難民申請者に立ちはだかってきた最大の困難のうちの一つでもあります。「何を基準に難民と言うか」や「どういった人物が難民として認められるべきか」といった点に関する、出入国在留管理庁と難民の現実との大きな乖離が、これまでも、そして今もなお、大多数の日本にいる難民と他の国々にいる難民が正式に「難民」として認定されるのを阻止してしまっているのです。

