ミャンマーでの32年間

英語版はこちら ENGLISH VERSION

現在あるのことを、一番自分の努力で最大のいいことをやりますしか考えないんです。

1959年にミャンマーで生まれたニョーは、1992年12月12日に初めて日本に足を踏み入れました。祖国が圧制的な軍事政権から解放されたら帰国して家族と再会するつもりでしたが、その日が訪れることはありませんでした。あっという間に、彼が日本で暮らし始めて30年以上になります。季節は巡り、2人の息子は成長し結婚し、妻は老い、両親は他界しましたが、ニョーがこれらの瞬間に立ち会うことはなかったのです。

日本での31年間、多くの変化がありましたが良い方向には変わっていません。今日に至るまで、彼は医療サービス、労働の許可、適切な住居を得ることができず、新型コロナウイルス感染症の流行下では危険な状況に置かれました。彼は12年前に難民申請を一度却下されており、2021年に再申請しましたが、結果は不認定でした。

あらゆる挫折や障害に直面しながらも、ニョーは立ち上がり歩み続けます。ミャンマーでの生活で培った誠実さ、寛容さ、忍耐強さ、責任感といった性格の核となる部分を備えた、心が強く開放的なニョー。現在の彼をより深く理解するために、このページではミャンマーでの幼少期、10代、そして成人期における生い立ちと経験を探ります。

1. 幼少時代と10代の頃

「私の場合は運が良いで」

ミャンマー最大の都市であり、最も重要な商業中心地であるヤンゴン市で、7人家族、人口の1割にも満たない中流家庭で育ったニョー。市の南には、ヤンゴン川の合流点にあり、文化的にも宗教的にも多様な繁華街、ボタタウン郡区があり、彼はそこで異なる宗教的背景を持つ友人たちと育ったそうです。7人家族という大家族は、父親が田舎で営む小さな米工場と、母親が町で営む衣料品店によって支えられており、ニョーと兄弟姉妹は快適な家に住み、国内でも有数の学校に通うことができたと言います。良い教育を受け、さまざまな宗教的コミュニティーの人々と交わることができたこの出発点のおかげで、ニョーは幼少期から10代にかけて、広い視野を持って成長することができたのです。

1.1. 良い出発点

「私は仏教徒だけども学校は、お母さんは子供のみたいに夢の学校を選んだだから。宗教は関係ないね。子供の未来を考えて、すごくお母さんの顔を見ると、大人になると英語もペラペラで良いのところに行くようにね、入れたけども。」

ミャンマーでは現在は初等教育の就学率は84.6%ですが、1960年代から70年代にかけては低く、60%程度にすぎませんでした。ニョーは恵まれた家庭環境のおかげで、幼い頃から学校に通うことができました。それも、ただの学校ではなくエリート学校だったのです。ミャンマーは家父長制的な価値観や規範が浸透している国です。そのため、親が息子を育て、息子の成長を促すことに時間とお金をかけることは珍しくありません。

ニョーの両親も同様でした。ニョーの母親は、長男の明るい未来を切り開くために、ニョーの教育に多くの投資をし、ほとんどのミャンマー人にとっては授業費が法外に高いカトリックのエリート校で小学校から高校まで学ばせました。この学校は、植民地時代から英語教育で知られるミャンマーで最も競争率の高い学校のひとつだったそうです。ニョーは小学校の入学試験に最初は落ちてしまいましたが、母親の励ましとサポートによって、1年後に妹と一緒に入学しました。このカトリックのエリート校でのスタートが、のちの大学進学と公務員としての就職の可能性をさらに高め、彼の人生の重要な転機となったのです。

第6ボタタウン基礎教育高校 旧称 「セント・ポール・イングリッシュ・スクール」 (Architectural Guide Yangon)

1.2. 偏見のなく視野の広い全知主義者

「20歳くらいまでは普通の仏教徒」

ミャンマー国民の90%近く(約4900万人)が仏教徒であり、ニョーも例外ではありませんでした。伝統的な仏教徒の家庭に生まれ、幼い頃から祖母に連れられて寺院で祈りを捧げ、祭りを祝い、満月の夜には儀式を修めていたと言います。しかし年月が経つにつれ、ニョーは仏教の枠にとらわれない考え方をするようになり、次第にあらゆる宗教を尊重する全知主義者、多様性を受け入れる国際人へと育っていきました。

2014年におけるミャンマーの宗教 (Britannica)

仏教徒から全知主義者への移行は、突然起こったわけでありません。カトリックの教会、ヒンドゥー教の寺院、イスラム教のモスクなど、ボタタウンの仏教徒として育ったニョーはさまざまな宗教観に触れ、さまざまな宗教的な場面や行事に参加することがずっと日常生活の大部分を占めていたのです。

カトリック学校で神父や修道女に別れを告げた後、彼は時々、家から少し離れたモスクで、イスラム教徒の間でダビハと呼ばれるイスラム教の儀式(牛の屠殺と牛肉の消費)が行われるのを目撃していました。さらに先にはヒンズー教の寺院があり、彼はそこでヒンズー教の友人たちとたむろし、神聖なバナナの葉で飾られた彼らの結婚式にも参加したそうです。家に戻ると、時々仏教寺院に行き、祖母と一緒にお経を唱えるという日々でした。

「キリスト教も、イスラム教も、ヒンドゥー教でも、仏教も、みんなに友達になりたい。」

宗教の多様性のイメージ (Freepik)

今思えば、ボタタウン・タウンシップの信仰、民族、文化の多様性が、ニョーに寛容と好奇心の種をまき、子供の頃から偏見のなく好奇心旺盛な人間にしてくれたのでしょう。彼は純粋に、背景関係なく誰とでも友達になりたいと思っていると言います。宗教、国籍、お金の枠を超えて、誰もが平等に生まれてくると強く信じているのです。このような生い立ちと幼少期の経験は、仏教、キリスト教、ヒンズー教、イスラム教など、彼が健全で賢明だと思う宗教の教えに従って人々と接し、人生を歩む方法に大きく影響しています。宗教に対する彼の前向きでオープンな態度は、庇護希望者として日本で過ごした数年間の困難な試練を乗り越える助けにもなりました。

2. 成人期

ニョーがミャンマーで過ごした成人期は、興奮と苦い思い出に満ちていました。ニョーが自分の生きたい人生、誠実で本物の人生について明確な理想像を得た時期です。誠実さと責任感という価値観を貫き、公務員として懸命に働き、後に生涯の伴侶となる最初の恋人と駆け落ちし、2児の父となった時期でもありました。このセクションでは、18歳になってから32歳で日本に旅立つまでの人生を語ってくれます。

2.1. 誠実さと生き方

「お金はね、あまりね…信用すると人々を壊す。」

「人は18歳になる前はほとんどまだ子供です」とニョーは言います。「祖母と一緒にお寺に通っていた子供の頃は、宗教や自分の人生についてあまり考えていませんでした。」と思い出しますが、20歳になったときに、国内の仏教僧の堕落に失望し仏教徒としてのアイデンティティを捨てる決意をするきっかけとなったと話してくれました。

汚職の元凶は、ミャンマー人による僧侶への多額の寄付でした。GDP成長率が低いにもかかわらず、ミャンマーは世界160カ国の中で寄付意欲が第2位だそうです。そんな人々の仏教への信仰心を利用し、僧侶たちは仏教寺院や僧院を建てるために寄付をするよう説得し始め、中には軍事政権と手を組む者さえいたと言います。子供の頃から仏教を信仰し、今でも五戒の教えを守り続けているニョーは、僧侶たちの嘘を強く非難します。

「タイの僧侶とミャンマーの僧侶は全然違う」

ニョーの声から、僧侶たちが金銭で人々を操り、信仰心の厚い善良な仏教徒なら仏教寺院の建設に寄付をするという露骨な嘘をついていることに、どれだけ怒っているか分かります。「それは偽物の仏教です」と怒りの声を上げるニョー。「祖母と一緒にお寺を訪れていたときは、何もかもが正常でした。私が成長するにつれ、僧侶たちは軍と手を組み始め、堕落していったのです。」と話します。

「すごくお互いに悪いグループです 仏教を使って」

僧侶たちが 「本当の仏教」から遠ざかっているのを見て、ニョーは自分が仏教徒であると考えるのをやめることにしたそうです。常に自分自身に忠実であり続ける者として、誤って伝えられ、誤解を招くような宗教の信者と名乗ることの価値と意味を見出せなかったのです。けれど仏教の信仰をやめたわけでも、無神論者になったわけでもありません。彼の人生の価値観の大部分は、祖母が幼い頃からニョーに教え込んだ正しい仏教の教えに基づいているのです。これらの価値観が一体となってニョーの人生を導いており、出会ったすべての人から学ぶことに価値を見出す、誠実で本物の人間とさせてくれました。

さらに、幼少期に異なる宗教的背景を持つ人々と交流した経験から、ニョーは異なる生き方を認め、尊重することができると言います。こういった意味では、彼は他の多くの人々よりも 「人間的」なのです。人生の多様性を受け入れ、常に探求するという基本的な価値観に沿って生きてきました。

「自分の文化を捨てるんじゃないんで。仏教熱心で信じて『お釈迦様が話したことが正しい。他のキリスト教とか、イズラム教はだめ、ヒンドゥー教もだめ。自分の宗教だけは間違いない』とか、その考えはないです。」

「同じ人間らしい扱いを欲しいわけよ」

ミャンマーの軍事政権を脱し平和と平等の重要性に気づいたニョーは、皆が共通の人間性を認め大切にし、私たちを分断する相違点よりも、私たちを結びつける類似点の方が多いことに気づいてほしいと心から願っていると言います。「人々が尊重され、公平に扱われる世界に住むこと。」これが彼のメッセージなのです。

2.2. 昼は大学生 夜は公務員

「19歳で公務員になっているよ」

19歳で大学に入学したニョーは、地元の区役所で公務員として働き始めました。午後7時から9時まで、住民の旅行許可証にはんこを押す仕事を5年間続けたそうです。「ミャンマーでは当時、あちこちに自由に移動することはできませんでした。社会主義国家だったから。」と説明します。中流家庭出身のニョーは、日々の生活を支えるためにアルバイトをする必要はありませんでした。両親からもらっていたお小遣いは、公務員としての給料よりもはるかに高かったそうです。しかし祖国に貢献したいという思いから、5年間で2万円ほどしかもらえなかったにもかかわらず、ニョーは大学を卒業するまでこの仕事に励んだと言います。

ミャンマーの公務員の写真 (The Global New Light of Myanmar)

「(ミャンマーで公務員として)5年間働いて、日本円で合計2万ちょっとだけ。だけどもう日本にいて、30万以上貰った経験あるけどもう、その30万より5年間働くの2万円がもうそれも自分の人生で、一つの経験も思うわけです。」

この言葉は、勤勉で自主的なニョーの性格をよく表しています。彼にとって、ミャンマーでの公務員の仕事で得た2万円は祖国への献身であり、日本での30万円は生きていくためのものだったのです。また、裕福な家庭で育ったニョーは、公務員の仕事により親からの経済的な自立の助けになり、大人になるための節目となったと言います。給料が安くても、公務員の仕事にやりがいと自己価値を見出し、仕事に打ち込んだニョー。勤勉で仕事熱心なのは、父親の教えの影響だと話してくれました。

「『なんのこともやれば、徹底的に頑張ってやってほしい』と、いつもお父さん。『やりたいことは、最初から勉強して、最後まで頑張ってほしい』」

ニョーはこの父の言葉を胸に、来日後は清掃の仕事をし、辛抱強く様々な障害を乗り越えてきました。お金や物といった物質的な面には興味がなく、自分の内面を高め、仕事や人との出会いに意味を見出すことに重きを置いているのです。

2.3. 唯一無二:駆け落ちカップル

「私は恋人ひとりで、真面目な人だよ、私は本当は。」

ニョーは愛する人や大切な人にとても忠実で誠実です。ニョーが人生で最初で最後の、たった1人の恋人と付き合い始めたのは、19歳で大学に入学したときでした。その彼女は2歳年下の隣人で、ボタタウン・タウンシップの同じコミュニティーに住んでいたそうです。しかし、ニョーの母親は、ニョーが大学を卒業して安定した仕事に就くことに専念してから交際することを望んでいたため、当初は二人の交際に反対していました。

「(お母さんは)怒ったよ。ミャンマーの新聞から『自分の息子じゃない』と発表した。」

「両親たちの意見がなんで自分の最初の愛を悪くする?」
彼女と駆け落ちするニョーを連想させるイメージ (Soundcloud)

ニョーは話すときにあまり感情を表に出しませんが、母親に反対されたことに関しては、当時の苦労や苛立ちを生々しく語ってくれました。彼女はニョーよりはるかに裕福な家庭の出身だったが、高校教育は受けていなかったそうです。このことが、ニョーの母親が二人の交際に反対した主な理由でした。それでも若いニョーは諦めませんでした。両家の反対にもかかわらず、2人は1年ほど隠れて付き合い続けたと言います。「愛は愛、学校は学校。大学で彼女がいて何が問題なんでしょう?私は何も悪いことはしていませんでした。自分の道を選んで何が悪い?」と怒りを露わにします。結局2人は駆け落ちしました。母親より恋人を選んだのではなく、その時一番合理的に見える決断をしたのです。付き合いながら大学進学を目指すことに何の問題もないと純粋に考えていたニョーは、自分の決断を固く信じ、自分で責任を負う覚悟を決めたと言います。1980年に帰省した際に結婚を発表し、その4年後には長男が誕生。両家の争いに終止符が打たれ、新たな人生の幕開けとなったのです。

「(母が)死ぬまですぐそば(にいたの)は嫁」

「ロミオとジュリエット」にも似た、ニョーと奥さんのラブストーリーから、ここ21年間会うことのできていないたった1人の人生の伴侶への誠実さと献身が分かります。ニョーの奥さんは長男の誕生後にニョーのお母さんと和解することができたそうです。ニョーの母がまだ生きていた頃、奥さんを実の娘のように可愛がってくれたと言います。だからニョーは、2年前に突然の心臓発作で息を引き取るまで、奥さんが母のそばにいてくれたことに感謝していて、それが自分からの母への唯一の恩返しだったと話してくれました。ミャンマーに強制送還される恐怖と、日本での生死の不安の中で生きるニョーにとって奥さんは、挫折を味わいながらも頑張れる大切な心の支えなのです。そして、その思いは日本での31年間、変わることはありませんでした。

2.4. 家族 責任 そして自由

「好きなことをやって責任を持ってください」

ニョーは長男が7歳、次男が3歳のときに日本を離れたため、本当の父親としての経験をすることができたのは7年間だけでした。2人の息子の成長に立ち会うことはできず、幼少期ずっと育児に参加することもできませんでしたが、彼は2人に人生の教訓を与えたと言います。「すべての選択に責任を持つこと」です。子供の頃から、拒絶されたり断られたりするのが嫌いだったと言います。祖母から欲しいおもちゃを買ってもらえなかったり、家族から交際を反対されたりするのが嫌だったそうです。だからニョーは、自分が日本で自由に生きるためミャンマーを離れたときのように、自分の子供たちが常に自由に選択し、その選択に責任を持つことを願っています。