日本での最初の数年

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「とにかく怖くて、早く終わって欲しかった…家に帰るか、どこか別の場所に行きたかった。」

日本の入国管理

2017年の終わり頃、オジーとクロエは成田空港で一夜を過ごし、その後母親と離れ離れになりました。庇護を求めマレーシアからカナダへ向かう途中、飛行機を乗り継ぐため日本に到着した3人でしたが、カナダに入国するための適切な書類を持っていないとの疑いで、搭乗ゲートで入国審査官に止められてしまいます。

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パスポートを取り上げられた3人は、事務所に連れて行かれ、入国について質問されました。父親がいるマレーシアに戻るための新しい航空券を買うお金もなく、オジーたちは自分たちが難民であることを説明し、その場で庇護を希望することにしました。母親が取り調べを受けている間、当時13歳のオジーは妹のクロエ(3歳)と遊び、携帯で気を紛らわせていました。当時を思い出し、「とにかく怖くて、早く終わって欲しかった…家に帰るか、どこか別の場所に行きたかった」と話します。次の瞬間、入国審査官が彼女とクロエの荷物を母親のものと分け、別々の場所に連れて行くと言ったのです。母親は最初抵抗しましたが、入国管理官は「あなたが行くところに子どもたちは連れていけない」と主張しました。これは決して珍しいことではありません。庇護を希望する家族の多くが、次に何が起こるか説明されないまま親と子で離されてしまうのです。オジーがこの時点で知っていたのは、自分の母親が入国者収容所に入れられてしまうということだけでした。

言葉の壁もあり、この先どうなるのかわからないまま、オジーは妹と一緒に男性入国審査官が乗る車に乗り込んだことを思い出します。そして無言のまま日は暮れて、2ヵ月間滞在することになる場所に到着しました。オジーはこの施設を、孤児や親に虐待された面倒を見てくれる人がいない子どもたちのための場所だと思っていました。

施設での生活

1. 長女としての責任

夜、千葉の児童施設に到着したオジーは、服を着替えさせてもらい、そのままベッドに入ったと記憶しています。施設内の寝室は男女別だけでなく年齢別にも決められていて、10歳年下のクロエと同じ部屋には入れませんでした。数週間前にガーナで兄と別れ、数日前にマレーシアで父と別れ、同じ日に成田空港で母と、そして施設ではクロエと別れて、オジーはこのとき家族全員と離ればなれになっていました。誰も知らない場所で、誰ともコミュニケーションがとれません。さらに、母親と離れ離れになったことで、クロエの世話が急に自分の責任となり、一人でいるよりも弱気になってしまいました。施設にはアフリカ系の髪に慣れている人が誰もいなかったこともあり、クロエの髪を整えるという単純な作業から、母親との別れを悲しむ妹を支えることまで、オジーは自分に与えられた新しい役割だけでなく、妹との新しい関係にも慣れる必要がありました。妹を第一に考え、家族の支えとなったのです。

特に上の映像ではオジーが妹をがっかりさせたという気持ちを表していて、自分の痛みだけでなく、クロエの痛みにも対処する難しさが分かります。妹が食事をしていないことを知り、施設の規則で一緒にいられないけれど泣き声が聞こえて、オジーは当局に従うか、妹を慰めるか、葛藤することになります。故郷を離れ、5人の家族構成から切り離されることは、長女である彼女にとって新たなプレッシャーとなっただけでなく、日本の施設に行くことなどあまりにも突然だったのです。「何が起こるか心配だった。何もなければいいと思ったけど、恐ろしいほど問題が起こってしまった」と振り返ります。庇護を求める予定だったカナダでは少なくとも英語を話す人々がいるのに比べ、日本ではコミュニケーションもとれず、恋しい母親から遠く離れた施設に来てしまったのです。普段は両親に安らぎを求めることができたオジーは、今度は自分が3歳のクロエの安らぎの源となりました。

時間が経つにつれオジーが姉としての役割を強く担うようになったもう一つの瞬間は、2人が拘置所の母親を訪ねたときでした。1ヶ月間母親と話すことができなかった後、やっと20分ほど会うことができたのです。「それまではソーシャルワーカーにお母さんに会わせてくださいとお願いして、なんとか1対1で1回だけ会わせてもらったんだ」と話します。ソーシャルワーカーに母親と話をするように何度も頼むことが、離れ離れになってしまったことに対する彼女の答えでした。彼女は家族全員に気を配り、何とかして家族を元に戻そうと力を注ぎます。オジーとクロエは施設の他の子どもたちとは状況が大きく異なり、彼らのニーズを制度が対応するのに時間がかかりましたた。難民の子どもたちは孤児ではないので、資金さえあれば親が面倒を見ることができます。しかしオジーは母親がどこにいるのか、そしていつ会えるのか、情報が得られなかったのです。再会の知らせを聞いたとき、嬉しさのなかでも妹のことを心配せずにはいられませんでした。

ガラスの壁で仕切られた通常の面会とは異なり、オジーとクロエは特別なファミリールームで母親と対面し、お互いに触れたり抱き合ったりすることができました。「机と椅子のある面接室みたいな部屋だった」とオジーは思い出します。部屋には2人の警官がいて、ソーシャルワーカーは母親と法律的な問題を話し合っていたので、一緒に過ごす時間は日本へ来る前とは比べものになりませんでした。それでも母親はサプライズを用意してくれていて、入国管理局での動揺の中でも、やっと会えたという喜びを覚えているそうです。オジーとクロエは、母親が少ししかないお金でコンビニで買ってきてくれたお菓子をもらいました。また、時間がない中で看守から帰るように言われ、なぜまた母親と引き離されるのか理解できない小さな妹を慰めたことも強く記憶に残っているそうです。オジーは不公平感を抱きつつも、千葉に帰る車の中で泣くクロエを抱きながら、妹の幸せを願っていました。

2. 適応

施設内で唯一の外国人である13歳と3歳の子どもたちにとって、適応は非常に困難なものでした。「外国人に慣れていない子どもたちと、日本人と一緒に暮らすことに慣れていない私たちにとって、お互い最初の1ヶ月は慣れるのにすごく大変だった」とオジーは言います。この施設では入国者収容所と同様に朝6時に起こされ、食事、勉強、遊び、テレビを見る時間を決められて、厳しいスケジュールに従わされます。また、持ち物は部屋の外に置かれ、服も自分のものでなく、施設のものを着せられます。家庭教育を受けてきたオジーにとって、厳しいスケジュールに合わせることは難しく、また、他の人とコミュニケーションをとることができないことも問題でした。規則や習慣に疑問を持ったり、意見を言ったりすることに困難を感じたオジーは、できるだけトラブルを起こさないようにすれば母親のもとに早く戻してもらえるだろうと想像しながら、無条件に規則や習慣に従ったのです。

オジーが心を開いて英語で話しかけられる唯一の人は、彼女のソーシャルワーカーと、そしてセラピストでした。子ども一人に対してソーシャルワーカー2名とセラピスト1名がつき、健康診断や親に関する質問をします。オジーはこの制度に感謝し、専門家との時間を大切にしました。また、子どもたちそれぞれには日記帳が渡され、自分の気持ちや希望を書き込んでいきます。オジーは自分の考えを書き留めるのに時間をかけたことを覚えていますが、この日記を家に持ち帰ることはできませんでした。「お母さんに全部見せたかったのに、施設で保管されていたんだ」と肩を落とします。それでもオジーははセラピストのことが好きで、彼女との時間を楽しんでいました。「彼女は本当に親切だった。英語は勉強中だったみたいで、時々分からなくなったりもしていたから、たまに英語で話すだけにしていたよ」と振り返ります。

「永遠に感じた」という1ヵ月と2週間後、オジーの母親は入国者収容所から釈放され、彼女たちを千葉の施設に引き取りに行きました。

この知らせは、オジーにとって思ってもみないことでした。施設での滞在で新しいことを頼むために、ソーシャルワーカーに会っていたときだったのです。母親が東京で家を見つけ、入国審査官の監視もなく、再び一緒に暮らせるようになるとは知る由もありませんでした。しかし、このことが家族3人にもたらした幸せをよそにに、この数週間の別離の経験は施設を出た後も彼らに影響を及ぼしました。社会的な統合と適応は難しく、母親がいるにもかかわらず、オジーは小さな妹を慰める役割を担い続けたのです。「ここにいると、お母さんはあまり幸せそうではなくて。だから私がクロエの相手をして落ち着かせ、面倒を見ることも多かった」と言います。少しの間、生活は難民認定を申請し、仮放免のルールを理解し、そのルールの中で家族3人を維持する方法を見つけることを中心に回っていました。特に施設での経験から、クロエの世話はオジーにとって得意なことの一つでした。しかし、施設に入ってからクロエは悪夢をよく見たり、言葉を覚えるときに吃音になったり、「離別恐怖症」のような症状が出続けたり、大変な思いをしたとオジーは思い出します。