日本社会への統合とオジーの未来

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「除け者にされた気分だった」

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就学と鬱の経験

オジーが妹と一緒に施設を出ることができたあと、家族の滞在先も探してくれたソーシャルワーカーは、彼女に日本で学校に通い始めることを提案してくれました。ホームスクールしか経験したことのないオジーは公立の学校に通えることに胸が高まりましたが、学校生活が障害だらけになるとは知る由もありませんでした。日本の中学校に通い始めたオジーは、登校初日を 「圧倒された 」と振り返ります。というのも彼女の言葉を借りれば、それは「たくさんの人がいる学校に初めて行った日」であり、彼女のようにそれまでホームスクーリングを受けていた人にとっては未知の世界のように思えたからです。この新しい世界は、彼女がリベリアで慣れ親しんできたものとはまったく異なっていました。第二に、彼女は日本の学校文化を知りませんでした。当初純粋に彼女に興味を持ったと思われる生徒たちとだけ会話を交わしましたが、言葉の壁があるため、こうした会話は自己紹介以上に発展することはなかったのです。いろいろなクラブのメンバーがオジーに自分のクラブを紹介しようと近づいてきましたが、しばらくすると紹介されるクラブもなくなってしまいました。オジーは一人になり、相談相手はスクールカウンセラーだけになりました。いつも一人で過ごす空き時間を埋めるためカウンセラーと頻繁に会うようになっていたところ、ある日、彼女ははオジーに友人を見つけてくれました。紹介されたのは英語も話せるネパール人の生徒で二人はすぐに最も親しい友人となりましたが、唯一の友人が卒業すると、オジーは再び孤独になってしまったのです。

オジーは音楽祭や体育祭、修学旅行など、さまざまな学校行事のときだけ人との関わりを感じていたと振り返ります。それ以外は授業中のグループディスカッションでさえ、学校ではほとんど誰とも会話をしませんでした。オジーが落ち込んだり、仲間はずれにされたと感じるようになったのは、これが理由でした。けれど、クラスメートはオジーとつながりを持ったりコミュニケーションを取りたかったのだけど、言語の壁がそれをほとんど不可能にしてしまったのだと、オジーは今でも感じています。彼女は人に対して心を閉ざし、授業を受けた後は一日中家で一人で過ごし、時には何もしないこともありました。けれども、中学2年の終わりにクラスメートと長野の山へ行ったとき、自分を見つめ直す機会を得たのです。

生徒は学費を払わなければなりませんが、オジーの母親は中学校の学費を行政機関から援助してもらっていたので、支払うことができていました。この支援は、オジーにとって今でも特別なものだと言います。日本に足を踏み入れて以来最高の自由をこの旅で感じて、それまでで一番中学校の友達と仲良くなれたと覚えているそうです。その旅行の2日目、彼女はスキーで自分だけの時間を過ごし、そこで自分の気持ちをどうにかしなければ、それに対処する方法を見つけなければ、と決心したのです。

自分の気持ちに対処する方法を見つけたいという強い願望は、オジーが中学3年生になっても続ていました。何かそのきっかけになるものが必要だと気づき、ネパール人の友人との再会がそのきっかけとなりました。学校での生活をあきらめかけていたオジーは、ネパール人の友人と同じ学校に行くために成績を上げようと努力し始めました。また、学校で他の人が話しかけてくれるのを待つのではなく、自分から話しかけようとするようになったのです。やがてオジーは、スクールカウンセラーに会う必要性を感じなくなりました。また、余った時間を埋めるために趣味を始めて、中学校では美術部に入りました。心からやりたいと思ったことで他の人と関わった初めての経験だったと振り返ります。この趣味を通じて、中野ブロードウェイに自分のグループの絵を展示したり、新小学一年生のための展示会を企画したりすることもできました。アートは彼女にとって自己表現の場だったのです。

中学校での経験を通して、オジーは高校へ溶け込むことが比較的簡単であることがわかりました。日本の学校で起きていることが、やっとなんとなく理解できたのです。ホームスクーリングを受けていたオジーは、リベリアには友達がいませんでした。オンラインゲームに興味があったため数人のネット友達はいたのですが、ネット上の友情は、より親密な本当の友情には及ばないと感じています。教室でできた友達も何人かいましたが、ほとんどは新しい趣味を見つけた結果としてできた友達でした。オジーはダンス部に入ったのですが、もともとダンスは好きだったものの、趣味として続けたことはありませんでした。けれど中学校で偶然ダンスグループに出会い、しばらく一緒に踊っているうちに、やはり自分が好きなことなのだと気づいたそうです。ダンス部は彼女が望むようなものではありませんが、部の人たちがもっとやる気とグループへの貢献心、より強いチーム精神を持つことを期待しています。たとえどんな苦労があったとしても、ダンスは彼女に「自由」を感じさせてくれるのです。オジーはこう語ります。

「学校や生活のことでストレスがあるときは、ひたすら踊るんだ。」

アイデンティティの維持

「私はアフリカ系。それが私の国籍だけど、性格と国籍は違う。」

幼い頃にリベリアを離れ、日本に来るまでいくつかの国で生活してきたオジーのアイデンティティ意識は強いままです。17歳という若さで、彼女は自分のアイデンティティの一部である人格と国籍を区別することを学んでいます。自分をどう認識しているかという質問に対して「私はアフリカ系」とオジーは答えましたが、それはアフリカ系は自分の信じる物事に専念する方法を知っている強い人々であるという母親の信念からきています。「私はリベリア人で、それを私から奪うことはできない」と、リベリア人コミュニティーに囲まれる必要性を感じていないと話します。自分のルーツの近くにあることを懐かしく思うこともあっても、日本人の友人たちとはうまくいっていると信じていて、自分の周りにいる人たちに満足しているそうです。

難民の子どもの頃よりも大人になってからアイデンティティを強く感じることは、ありがちなことかもしれません。幼くして母国を離れたオジーは、さまざまな場所を経て日本にたどり着きましたが、アイデンティティが揺るがされることはなく、旅の途中で学び適応したことを受け入れてきました。オジーは「特定の性格を選ぶ」ということはしないそうです。それより、自分らしくあること、そしてあるがままの自分を認識してもらいたいと思っています。日本に移住すると日本人に 「なる 」とよく言われたりしますが、彼女はリベリアや他の国よりも日本でよく見られる特徴や特性が自分にあることには同意するものの、それが日本人に 「なる 」こととはまったく関係ないと考えています。むしろそれは社会に適応し、溶け込むための行為であって、場所が変わったあと特性を生かした上で行動することは、単に地域に依存し、それに適応することに過ぎません。加えて、日本で暮らす難民は、その法的地位が他人からの識別方法になるとよく感じています。オジーは難民であることの意味を理解していますが、法的地位に自分が定義づけられるとは思っていません。難民として日本で暮らすことを受け入れていますが、彼女にとっては、それは自分の個性の中で他のもののように存在する何かにすぎないのです。こう考えると、来日してから変わった性格や適応してきた特性は、オジーをリベリア人より日本人寄りにしたり、彼女のアイデンティティを変えたりしたのではなく、オジーの一部に加わっただけだという見方も納得できます。

一方、オジーはアイデンティティが双方向のものであることも認識しています。自分のアイデンティティについて信念を持っていますが、周囲の人々もまた何らかの形で彼女を識別するわけです。日本に住んで4年になりますが、日本の人々は彼女を日本に住む外国人として見ていると感じていて、人格を深く理解しているわけではなく、ただ外見や振る舞いといった外見的なイメージによって彼女のアイデンティティを理解していると言います。これは彼女の学校での経験でも同様です。

オジーは自分がリベリアよりも日本をよく知っていると信じています。2つの国での生活経験は正反対ですが、日本の社会に触れる機会も多かったため、将来は日本に住み、家を持つことも考えています。リベリアに戻ることも、他の国に移住し生計を立てることもできないオジーにとって、唯一の選択肢だとも言えますが、その一方で、数年後に難民認定を受けることができれば自分と家族の人生が前に進めるので、彼女にとっても喜ばしいことでしょう。このような状況は、幼い頃から受け入れ国で生活している難民の子どもにはよくあることで、彼らは親の国よりも受け入れ国に慣れ、自分の家としています。しかし、彼女が日本を故郷とすることになった経緯は、彼女が直面した不安定さからきているのです。迫害のために逃れた国に自分と家族が戻らなくて済むのであれば、彼女は国籍とともに難民の地位も受け入れます。現在オジーと家族は仮放免を更新し、日々を生き延びるという同じサイクルから抜け出せないままでいます。だからこそ、ビザのステータスが変わらなければ、オジーは自分の人生が変わるとは思えないのです。

先の見えない将来

「大学に行けるかさえ分からない。」

母親は娘たちに自分が生きてきた人生よりも良い人生を送ることに集中してほしいと思ってるということを、オジーは何度も強調してきました。そのような人生を実現するために、教育は重要な役割を果たします。現在高校生のオジーは次の進路についてすでに考えていて、大学、特に上智大学か東京国際大学への進学を希望していますが、日本での法的地位のために今後もいくつかのハードルに向き合うことになるのも承知しています。日本では学生ビザを取得する外国人が増えていますが、仮放免の人々にはまだ大学に入学する法的権利がなく、そのためには在留カードが必要なのです。さらに、オジーと家族は難民を支援する団体に経済的に依存しているため、家計のやりくりに苦労している家族が自分の大学進学のために十分な資金を確保できるのか心配しています。彼女が考えるもうひとつの選択肢は大学生活を支援してくれる奨学金を受けることですが、それも難民認定を受けられるかどうかにかかっています。これは日本にいる庇護希望者に共通することで、ほとんどの場合、彼らの法的地位は働くこと、旅行すること、家族を日本に呼び寄せることなどに極度の不確実性をもたらすのです。まだ17歳のオジーにとって、彼女の法的地位が先行きの見えない将来に繋がってると話します。

日本の読者と政府へのメッセージ

オジーは日本での長期滞在を希望しています。日本での経験を通して、日本の入管や人々の良い面も悪い面も見てきました。彼女は自分の周りにいる人々に満足していますが、そのような人々を見つけられるまでには時間と努力が必要でした。また、日本政府は住民により良い安全な生活を提供していると感じていますが、難民だけでなく外国人全般をもう少しオープンに受け入れてもいいのではないかと思っています。