「制限を感じずに友達と好きなことを思う存分できないのは最悪だった。」
千葉の施設を出て東京に移り、オジーの家族は新たな始まりを迎えました。入国者収容所から釈放されたオジーの母親は仮放免という状態になり、法律上、オジーとクロエも同じ状態になりました。仮放免には、就労許可や健康保険がないこと、国内での契約が一切認められないこと、3ヶ月ごとに東京入国管理局で更新しなければならないことなど、多くのルールがあります。建物の外で生活できるようになったとはいえ、彼らは仮放免の制限に縛られ続けました。「嬉しさと安堵感に全体的な状況への不安もあって、感情が入り混じっていた」とオジーは思い出します。このような制約があっても、オジーの母親は家族の法的、経済的な状態を心配することなく、子供たちが普通の生活を送ることを望んでいました。日本がそのための基本的なものを提供できるのであれば、そこが彼らの留まる場所なのです。
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難民の子どもたちへの団体からの支援
オジーは自分の教育へのNPO法人インターナショナル・ソーシャル・サービス・ジャパン(ISSJ)からの支援の大きさを認識しています。「私が塾に通う必要があるときは塾を探してくれるし、無料で通わせるか彼らがお金を払うかを塾の人たちに説明してくれたんだ。また、制服を買わなきゃいけなかったときは本当に、本当に、値段が高かったんだけど、それも払ってくれたんだ」とオジーは話します。
大阪大学の乾美紀教授によると、過去にはインドネシア人の子どもは40人ほどが日本で認定されたと言います(p.84)。このデータ以外にも、その後も認定されたと記録に残っている難民の子どもたちはそれほど多くなく、オジー自身も日本にいる難民の子どもたちをあまり知りません。しかし、難民の子どもたちを支援する団体はあり、オジーも例外ではないのです。子どもの基本的な権利である教育については、在留資格に関係なく(学校・教育委員会との相談が必要ですが)経済的な支援制度があります。1952年に設立されたISSJは国際交流の社会的影響に対応していて、特に日本の入国管理、福祉、教育、社会統合面での融通の利かなさで困難に直面している家族に慰問を通して支援することを目的としています。ISSJはオジーとその家族の教育相談、そして特に教科書や制服など必要な教材の経済的支援を行ってきました。

別の団体に、難民を含む外国人の支援を目的とする社会福祉法人「さぽうと21」があります。サポート21も1979年からインドシナ難民の支援を行っていて、活動内容は相談、進学のための生活支援、日本語教室、経済支援などです。「みんなのおうち」は、子どもたちの学業や日本語の遅れを取り戻すための支援を行っているNGOです。RHQとして知られる難民支援本部は、1979年に政府から委託を受けて当時大量に入国していたインド系中国人難民の定住に取り組んでいて、現在も日本で難民を支援する最も認知度の高い団体のひとつです。日本にいる他の多くの庇護希望者と同様に、リベリア人家族も経済的援助をRHQに頼っています。2020年現在、難民認定申請の結果を待つ間の生活費について庇護申請者を選択的に支援していて、たとえば経済的支援の対象となる場合、子どもの難民は1日あたり約800円(約8ドル)の手当を受け取ることができます。オジーの家族は3年以上も申請書の審査を待っているためこの間RHQからの支給額だけで生活していますが、特に来日当初に比べて額が減っていることを考えると、快適な生活を送るには十分ではないとオジーは言います。彼女の計算によると、家賃を差し引くと電気代や水道代を含めて一家が生活できる日本円は月2~3万円程度で、食費やその他の日用品代は1万円程度です。制服代、交通費、修学旅行費、課外活動費などの関連費用を含めると、「私の学費のために、お母さんはそれを半分に切詰めなないといけなかった」と語ります。オジーは高校生の自分が家計に与える負担を理解していて、経済的な限界を日常的に考えるようになったことについて触れています。しかし、仮放免である以上、いずれ家族を経済的に支えるため高等教育に進む他ありませんでした。
オジーはこの重荷を軽減するために、支援団体以外へのアプローチも試みています。2020年に政府の奨学金に応募したのですが、日本では「在留外国人」であるという理由で拒否されてしまいました。単に 「在留外国人 」というだけで仮放免の家族は孤立し、歓迎されず、日本社会のどこにも適合しない人間として扱われます。このような理由で日本を離れる人もいますが、難民であるオジーとその家族にとって、これは選択の余地がないのです。