「どこかで誰かが何が起きてるか知ってるに違いないって信じているんだ。」
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空港から収容所に移された当初、パトリックは難民キャンプのようなところに入れられると思っていました。それよりむしろ収容所はまるで刑務所のようで、そこで彼は人生の丸2年間を過ごさなければならなりませんでした。カメルーンで経験したことより悪いことはなかったのですが、簡単なことでもありませんでした。このセクションでは、パトリックはこの刑務所のような場所に滞在していたときの困難、しかし同時に希望、難民を収容することの後進性、そしてたとえ自分の幸福を犠牲にしてでも挑戦しようとした彼自身の試みについて語ります。日本の入国管理制度にまつわる自分の嫌な経験を世界に知ってもらいたい、そして、自分の話をすることで将来日本にやってくる難民の役に立ちたいと願っているのです。
1. 難民キャンプではなく刑務所への到着
「難民がいるところに移送されると言われたとき、ちょっと嬉しくなった。難民キャンプみたいなところに連れていかれるんだと思ったんだ。」
2019年1月8日、到着から36日後にパトリックはようやく成田空港を後にし、牛久収容所に移されました。成田空港では、入管の職員とほぼ1日2回面接する以外誰とも会うことが許されていなかったため、ほっとしたと言います。外に出られたのはたまにあった短い休憩のみで、その時も警備員がずっと横にいたそうです。36日経っても、彼はまだ隣の部屋の人のこともそこにいる他の誰のことも知らなかったのです。当時彼の英語力は高くなく、職員の英語も不完全でした。そのため、職員から収容所のことを聞いたときに彼が理解したのは難民を収容している場所ということだけだったので、これから経験する現実とはまったく異なる期待を抱いてしまったのです。日本の入国者収容所は過去数年間に何人もの人が自殺しており、他国の収容所も完璧ではありませんが、厳しい生活環境が蔓延していると指摘されています。一般的な日本人にさえあまり知られていないこの状況を、日本に来る難民は知る由もないのです。
パトリックは午後に収容所に到着し、まず身体検査を受けました。携帯電話を手渡さなければならず、長い間見ることはできないと言われました。その後収容者用の靴をもらい、建物を通って小さな部屋に連れて行かれました。彼はまだ知らなかったのですが、これからの25ヶ月をここで過ごすとは、当時のパトリックは思ってもみませんでした。現在日本には、さまざまな理由で外国人を収容するための施設が17ヶ所あり、収容者には難民申請者も含まれます。本来は短期間収容するための施設だったのですが、収容期間はどんどん長くなっており、強制送還前に8年間収容されたケースもあります。グラフを見ると牛久収容所に2年以上収容されている人が圧倒的に多く、パトリックもすぐに身をもって知ったように、長期収容は珍しいことではありません。


収容期間が長いこと以外にも、収容所を刑務所のようにしている理由があります。外に出られないこと、厳しいスケジュールに従わなければならないこと、自由にインターネットにアクセスできないこと、カードを購入しないと電話も使えないこと、履く靴が決まっていること、看守の監視があることなどです。パトリックは刑務所に入ったことはなかったのですが、刑務所について知っていたすべてのことを収容所で見たと言います。外から面会に来る人は決まった時間に来て身元を登録し、携帯電話とカバンを預ける必要があります。その後、シースルーのアクリルの壁で仕切られた部屋で話をすることができますが、被収容者は看守の手に取られ、たくさんの扉を通って出入りするのです。正規の書類を持っていなかったというだけで、犯罪を犯したかのように投獄されてしまったことに納得できなかったとパトリックは言います。いくつもある扉や、看守、細かく決められた規則は自分が収容されている存在であることだけでなく、いかに望まれない存在であるかも示していたのです。
収容所での扱いの結果、被収容者は精神的に不調になり、母国を追われた後にさらなるトラウマに苦しみます。その状況から難民として受け入れられることを信じられなくなり、自傷行為や自殺に至ってしまうこともあるのです。中にはハンガーストライキを行って10日間も食事をとらない収容者もいますが、収容所側ではハンガーストライキで死なれたくないので、本当に健康が危うくなるとストライキ中の被収容者を一時的に釈放するのが普通です。これらの被収容者にとって所内の状況は非常に悪く感じられ、外に出るチャンスのためなら何でもするとパトリックは説明します。このまま収容所に留まり続けるくらいなら、外に出ようとして死ぬ方がましだとまで思うのです。難民にとって家に帰るという選択肢はないのですが、刑務所での生活も人生ではありません。当時は難民申請者の1%以下しか受け入れていなかった日本において、被収容者はそこに留まるか、本国に強制送還されるかのどちらかしか選べません。そのため、唯一の人道的な未来である生きる権利を得ることが事実上不可能であることに気づくと、被収容者は精神的に苦しんだのです。
2. 面接の繰り返しと決まっていた答え
成田空港での勾留と牛久収容所での滞在中、パトリックは難民申請のための入国審査官との面接を受けました。面接官は日本の法務省に属する出入国在留管理庁の職員です。面接は義務であり、本当に難民に該当するかどうかを調べるためのものです。しかし、当時の日本の難民申請者の受け入れ率は1%以下で、ほとんどの面接が不認定に終わります。パトリックは、面接は本当の難民かどうかを見極めるためにあるのではなく、不認定の決定はすでに下されており、面接はその理由を見つけるための形式的なものだと感じたと言います。パトリックのように自分が難民であることを100%確信している人たちをも落胆させる尋問のようなもので、彼の言葉では「良い気分で始まっても怒って終わる」のです。
面接官はパトリックに迫害の話を聞く代わりに、日本に到着した日に着ていたシャツの色や、カメルーンで逃亡していた時に履いていたズボンの色などを質問します。これらの質問に正しく答えても、パトリックが難民であることを証明する助けにはなりませんが、間違って答えると、「あなたの話はつじつまが合わない」ということになるのです。認定を求めている人にとって、これらの質問は非常にもどかしいものでした。パトリックはこの種の質問にはまったく答えないことが最良の判断だと気づき、反応しないことで自制を保ちました。妙に具体的なことを詳しく聞く以外にも、面接官はパトリックにカメルーンに戻るように説得しようとしました。迫害を受けたことの証明になるようなカメルーンでの問題を尋ねる代わりに、お金を受け取っていつか帰国できそうな外国人向けのプログラムについて話したのです。これでは難民が自分の国に帰れないということから的外れで、命からがら逃げてきたのではなく、お金を探してやってきたと言われたように感じたと言います。
「どこかの団体の名前を挙げて、国に帰ると認めれば、帰る手助けをすると言われたんだ。」
こうした面接でのフラストレーションに耐えるため、パトリックは面接の流れをコントロールし、怒らないようにする方法を学ばなければなりませんでした。ある面接では水を与えられずに多くの質問をされたので、答える代わりに、まず水をもらえるよう要求しました。父親と兄がどのように殺され、すべてを失ったかを話すのには、気持ち的に辛いことであり、水があると少しは楽だと思ったからです。水をもらうまでいくつかの質問に答えないことで、パトリックは自分の話をよりよく伝えることができることに気づきました。さらに、すべてを正しく記憶するために詳細を書き留めるようになりました。以前は日記やノートをつけることなど考えもしなかったのですが、収容所では扉、時間、場所などあらゆることを書き留めるようになりました。そうすることで、入国管理センターが難民申請を却下する際に使う矛盾したことを言わずに済むからです。彼の最初の申請は、出身地のスペルを英語ではなくフランス語で書いたために却下されました。入管職員は自分の出身地のスペルを間違える人などいるはずがないと言い、このことだけで迫害についての一部始終を全否定したのです。パトリックは、このように自分が正確に覚えていない細部のために嘘つきだと非難されるのを避けるため、できる限り物事を書き留めました。

もうひとつ面接の大きなハードルとして挙げておかなければならないのは、言葉の壁です。パトリックはカメルーンでほとんどの時間をフランス語で過ごしていたため、日本に来たとき彼の英語はあまり上手ではありませんでした。さらに入国審査官は日本語しか話せなかったので、面接の際には電話でフランス語の通訳を呼んでいました。しかし想像がつく通り、通訳が電話口にいると相手側がきちんと理解して答えるのは難しい上に、通訳がミスをしたり、誤訳をしたりすることもあります。面接によって通訳も語学力も違うため、パトリックは通訳のミスを責めるつもりはありませんが、その代償を払うことになるのは難民当事者であることを残念に思っています。なぜなら、このようなミスは彼の話の矛盾点として指摘されて「嘘つきの証明」になってしまうからです。
難民の話が間違っていることを証明する以外にも、難民が通訳の間違いの代償を払うケースはあります。ある日、パトリックがサッカー中に怪我をして病院に行きました。受けた検査の結果を通訳が日本語からフランス語に訳してくれたのですが、きちんと訳すどころか、パトリックにはまったく関係のない病気だと言ってしまったのです。それは中年以上の人がかかる病気であり、医師もパトリックがその病気にかかっている可能性を否定したそうです。この場合、パトリックは通訳が正しいよう確かめることがでいましたが、収容所ではなく難民キャンプに行くと思っていた時のように、通訳で何が失われたのか気づかず、分からなかったことも間違いなくあります。このように、難民にとって言葉は日本で自分の状況に安心感を抱こうとするときにも、迫害の話を伝えるときにも、大きな障壁となるのです。
3. 人生が止まってしまったとき
「収容所の中の話は別に良いんだ。最初は心配したけど、中に入ってしまえばそんなに悩みの種ではなかった。僕の人生について考えて全てを失ったと気づいたとき、それが本当に恐怖だったよ。」
収容所での生活で一番大変なことは、1日に短時間しか外に出られないこと、知らない人と相部屋になること、厳しいスケジュールに従わなければならないこと、与えられたものしか食べられないことだと想像するかもしれません。あるいは、インターネットにアクセスできなかったり、外の人と自由に話せなかったりすることが一番つらいことだと思うかもしれません。しかし、パトリックにとって最悪だったのは、家族や以前の生活を失ったことでした。収容所にいた最初の数ヶ月は家族のことばかり考えていつも悲しくて泣いていたので、所内での生活が過酷なものであったことすらあまり意識していなかったほどだったと言います。収容所では精神的なサポートはまったくなく、パトリックは被収容者用の電話を使うために必要なテレホンカードを買うお金も持っていなかったので、カメルーンの友人とも連絡を取ることができませんでした。そのため、収容所での生活は非常にストレスが多く、辛いものでした。
パトリックは日本に来てからも自分の人生が続くと思っていましたが、収容所ではそれどころでなく、いつまでそこにいなければならないのか見当もつきませんでした。グラフにあるように、長期収容は蔓延しているのです。新しい生活を始めることもできず、カメルーンで経験したことを少しも忘れることもできないまま自分も長い間そこにいなければならないのかと思い、パトリックは怖くなりました。昔も今も、夜はしっかり眠ることができないと言います。難民であることを認められず、日本社会への参加を拒まれ続けたことが大きなストレスとなり、以前はしゃんとしていた見た目も変わってしまいました。収容所で手に入る唯一の医療品のひとつが睡眠薬ですが、パトリックはそれを使いたくはありませんでした。使用した被収容者は感情をコントロールできなくなったり、生活リズムが狂ったりといった副作用を経験するからです。他の医療援助お十分に行われていないとパトリックは言いますが、このことは2021年3月のウィシュマさんの死が証明しています。ウィシュマは33歳の女性で亡くなる数ヶ月前から健康問題を抱えており、15キロ以上痩せて血を吐いていました。けれども病院に連れて行かれるどころか予約のときまでもっと待つように言われ、代わりに抗精神病薬を渡されたのです。それから何日も経たないうちに、彼女は亡くなりました。
「そう。泣くほどの問題があっても、外の病院に行くのに2ヶ月もかかるかもしれないんだ。2ヶ月か3ヶ月かな。その間ただ痛みに苦しむんだ。」
日本が調印した世界保健機関(WHO)憲章では、医療は人権とされています。この条約では国家はすべての人に許容範囲にあって負担の少ない医療を適時に提供する法的義務を負っていますが、難民認定を待つ人々にはこの権利がまったくないようです。パトリックはまた、苦痛を感じ続けることがいかに被収容者を狂わせ、時には物を壊してしまう原因になるかを説明します。ストレスと痛みの副作用として、被収容者が夜中に目を覚まして部屋で泣き叫ぶこともありました。入管職員がこれに反応することはめったになかったそうです。
2014年、糖尿病の43歳のカメルーン人男性がもう立っていられないほど健康状態が悪化し、収容所で亡くなりました。ビデオには彼が助けと水を求めて叫んでいるのが映っています。数時間後、彼は息を引き取りました。
収容所では、ストレスを感じている人々を落ち着かせようとしたり、それがうまくいかなかった場合に、他の被収容者の迷惑にならないような別室に入れたりして対応することもあります。 パトリックが別室に入れられたのは一度だけで、新型コロナウイルス流行の最中に咳をしていたときです。そのときは医師の検査でウイルスに感染していないことが確認されたにもかかわらず、独房に入れられてしまいました。この独房では、誰とも会うことも話すこともできません。最初彼はそこで本を読んでいただけで、騒ぐこともありませんでした。しかし、3週間ほど経っても、理由もわからないまま、まだそこにいたのです。理由もないのに外気にも触れず、人との接触もない場所に留まることは合理的でないので、パトリックはなぜ自分がまだそこにいるのか説明するよう職員に要求しました。彼らは説明することはなく、自分たちには責任がなく収容所長の許可が必要だと答えたのですが、所長は休暇中だったのです。つまり、所長が休暇中という単純な理由で、パトリックは完全に隔離されていたのです。
「所長が休暇に出たというのは納得がいかなかったよ。それに何の関係が合るかというと、その所長が俺を独房に入れていたんだ。自分は外で楽しくしている中、俺は独房に残されてるのは『普通じゃない』って言ったんだ。」
パトリックはまた、彼を嫌ってよくケンカを売ってくる男性と同室にならざるを得ませんでした。収容所で経験したあらゆるストレスや悲しみの中でも、ストや抗議を起こしたことも、3週間もの隔離について言い争うこともなく、自分を嫌っているルームメイトと肉体的に争うこともなく、嘘をついて仕返しすることもなかったとパトリックは強調します。パトリックは収容所の非人間的な状況や不公平さが変わることを願っていますが、彼の物語で最も恐ろしかったのはカメルーンで起こったことも読者に知ってもらいたいと話します。彼が帰国せずに収容所でこれだけのことに耐えたのは、さらに悪いことを経験した祖国に帰れないからなのです。
「本当のところ、かなりキツかった。でも僕はそれ以上にキツイことに慣れてたんだ。」
4. 「外で会えますように」
パトリックが収容所で希望を取り戻すのに役立ったのは、他の人々の存在でした。空港での36日間の拘留とは違い、牛久収容所では他の収容者と話すことができました。泣いていることを知られたくなかったのですが、彼らはそれに気づき、面会に来たボランティアに彼の名前を教えてくれました。面会は収容されている人たちの精神的な支えになったり、話を聞いたり、無料の弁護士や石鹸・シャンプー類や電話を使うためのペイカードについての情報を伝えることで彼らを助けようとするボランティアグループがあるのです。しかし、ボランティアが被収容者を訪問するには、その人たちの名前と国籍を知る必要があります。他の被収容者がパトリックの名前をボランティアに教えたので、彼らは面会に来ることができたのです。こうした面会を通じて彼は人々と出会い、再び生きる希望と意志を得たと話します。その中の一人、アレックスは日本人は親切だと話し、いつか外でパトリックに会いたいと言いました。この言葉はパトリックの心を揺さぶりました。常に国へ戻るよう説得され続け、日本での将来についてかなり否定的になっていたからです。

パトリックがカメルーンでの生活で知り合った友人たちに電話をかけることができたのも、このペイカードのおかげでした。友人のひとりに電話したとき、パトリックはとても良いニュースを受けました。家族のほとんどがまだ生きていたのです!カメルーンから逃れた時は家族全員が死んでしまったと聞いていましたが、その友人が母親と姉妹はまだ生きていると教えてくれたそうです。父親と兄弟の一人は処刑されたのですが、他の人たちは家にいなかったのでパトリックと同じようになんとか逃げ出すことができたのです。家族が逃げたあとは電話番号が分からないため連絡を取ることはできず、収容所では多くのお金が必要なため、あまり電話をかけることもできませんでした。 でも彼らが生きていることを知っただけではるかにリラックスできるようになって、自分の将来についても考えることができるようになったと言います。
収容中にパトリックを助けてくれたもうひとつのものは聖書でした。カメルーンでは厳格なキリスト教徒ではなかったのですが、彼は聖書の物語に希望と慰めを見出しました。そのひとつがヨブ記で、物語は次のようなものです。ヨブはすべてを持ち、神を信じている裕福な男です。何も持たなければこの信仰が続くかどうかを試すために、サタンはヨブから財産、子ども、妻、健康など全てを奪います。しかし、ヨブは神に忠実であり続けるのです。

パトリックはこの本を読むことを勧め、「ヨブにとって状況は最悪で、ほとんど全てを失ったけど後にすべてを取り戻したんだ」と嬉しそうに話します。この物語はパトリックにすべてを失った自分の人生を思い起こさせて、それから将来に希望を持ち続ける助けとなるに違いありません。聖書はパトリックにとって非常に重要なものであり、彼は他の被収容者たちとも聖書について語り合ってある男性を大いに助け、その彼も未だにパトリックが聖書の教えで助けになってくれたことを話していると言います。
「彼にとって大きな励ましとなったことを覚えてるよ。全ては聖書からの話で、聖書から学んだことや神の言葉を共有したんだ。そしたらすごく元気になってね。出所した今でもそうだよ。」
5. 間違っている制度
「僕は日本人ではない、それが僕の唯一の罪だった。ただそれだけのことで25ヶ月収容された。だから本当に、この制度は優しくないと思う理由があるんだ。」
パトリックがようやく仮放免で収容所を出ることを許されたとき、お金を払わなければならないと告げられました。仮放免の申請書を提出する人は、許可された時点で金額を支払い、滞在できる住所を示さなければならないのです。しかし、パトリックは前もってカメルーンから引っ越す用意をしていたわけでも、祖国での所持品を全て失うのが分かっていたわけでもありません。彼を検査し、持ち物ややり取りをすべて記録した入国審査官は、このことをよく知っていました。命からがら逃亡する人々のほとんどは逃亡を選んだり計画したりしておらず、所持品やお金を持ち出すことはできないのです。しかし日本の入管はお金を持っている人にしか自由を許しません。つまり、多くの収容者はそこから出るためにボランティアに頼る必要があるのです。パトリックは幸運にも、釈放料を払いたいと言ってくれる人たちに何人か出会いました。しかしお金がなく、自分で稼ぐ術もないにもかかわらず収容者に支払いを求める不公平さにショックを受け、彼は支払いを拒否しました。「間違っている」とパトリックは言います。
何も持っていない人たちから収容所を出るためにお金を要求すること、そしてこのような人々にお金を稼ぐことを許さず、日本の思いやりのある寛大な人々に頼らせるような制度は間違っているとパトリックは話します。たとえ刑務所のような場所に一生いることになってもお金を支払わなかったほど、それは間違っていることだと確信しているのです。結局、パトリックの弁護士が彼を通してではなく、入管に直接お金を渡したことで、出所することができました。現在パトリックは仮放免中であり、多くの新たな課題に直面しています。彼はまだ働くことが許されず、健康保険に加入することもできず、いかなる社会扶助の資格もありません。そして、この不安定な状況で彼が頼りにしている日本人の多くは、仮放免中の人々が直面していることを知らないのです。
“Many Japanese really are not aware. Trust me, because I’ve, I met many of them. They’re really, they don’t e「多くの日本人は本当に知らないんだ。多くの日本人に会ったけど、本当に、入管が何かさえ知らない。入管が何か知らない日本人に会ったんだ。僕の話を聞くと、『本当?』と言ってたよ。」ven know what is immigration. I saw Japanese, who don’t even know what is immigration is. When they hear, some of them heard about my story, they say, ‘Are you serious?’”
パトリックは日本人が好きで、とても親切だと思っています。入管の職員を非難することもありません。しかし、彼は日本の入管の制度についてもっと多くの人に知ってもらいたいと思っているのです。パトリックが正規の資格を持っていないと言う理由で投獄されてしまったことについて、「『何をしたの?』と聞かれても僕の答えは『分からない』なんだ」と話します。また、日本が当時申請者の1%ほどしか受け入れていないこと、彼の迫害の話をまったく聞いてくれなかったこと、むしろ彼が面接に行ったときにはすでに不許可の紙が用意されていたことも紹介してきました。パトリックは2年以上も収容されて働くこともできず、新しい生活を築くこともまったくできなかったのです。彼が直面した苦難、適切な医療が受けられないこと、ストレス、そして他の被収容者がハンガーストライキを行なったり、自殺さえしたこともパトリックは語ってくれました。
右側のビデオでは、元法務大臣で現在は内閣総理大臣特別顧問の森雅子氏が、長期化する収容と非人道的な収容環境について質問されたときの反応を見ることができます。法務大臣はこの制度の責任者であるにもかかわらず、ここで提案された解決策は、より迅速かつ効率的な強制送還だったのです。
2021年、この理屈に沿って日本の入国管理制度を改正し、より迅速な強制送還を可能にする法案が提出されました。収容中に死亡したウィシュマさんへの処遇を撮影した監視カメラの映像を当局が見せなかったことなどへの指摘で撤回されたのですが、2023年に再提出され、ほぼ同じ内容で可決、2024年6月には施行されました。しかし、この法案は祖国に「帰りたくない」人々を前提にしており、祖国に「帰れない」ために収容所に留まらざるを得ない人々という問題の本質を見落としています。パトリックは、自分の体験談を紹介することで日本人にもっと多くの認識を持ってもらい、より良い制度を作りたいと願っています。収容と強制送還のどちらかに焦点を当てるのではなく、難民に生きるチャンスを与えるような制度です。
6. 信じられなかった出所
12月23日、パトリックはようやく仮放免で収容所を出ることができました。あまりに長い間収容所にいたので違う人生が本当に可能なのかほとんど信じられず、夜目を覚ますと収容所を出られるというのは本当なのだろうかと不安になったのですが、それは夢ではなかったのです。パトリックは本当にここを去り、希望に満ち溢れていました。彼はこう説明します。
「自分の中で確信してたんだ。俺はチャンピオンで、どんなチャンピオンもトレーニングは決して簡単なものではない。分かるかな?だから収容所を出たとき、これから大丈夫だと思った。」
しかし、パトリックがどれほど意欲的でどんなにたくさん耐えてきたとしても、次のページでわかるように、日本で難民として認められていないということは、収容所の外でも彼を待ち受ける試練があるということなのです。