カメルーンでの生活

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1. マンフェ 1990年

カメルーン南西部(英語圏)

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「日本でもアングロフォンとフランコフォンは…」
「だから何だ?ばかげているよ」

「カメルーンでの人生の時系列を思い出すのは難しい。というのも、いつも何かのせいで動き続けてたから。でも僕は子供の頃とはずいぶん変わった。もし君が僕の立場だったら、収容所での2年間で君もずいぶん変わっただろう。同じ人間には戻れないんだ。」

パトリックは、今となっては話す言葉によって命を落とす可能性があり、2017年後半以来致命的な紛争と内乱を抱える国、カメルーンに生まれました。カメルーンは思考的にも言語的にも、南西部のアングロフォン地域(英語圏)とその周囲の大部分を占めるフランコフォン地域(フランス語圏)に分かれています。歴史的に疎外されてきたことからアングロフォン地域では分離主義的な抗議運動が起こり、極北地域では2021年にイスラム主義武装組織ボコ・ハラムによる攻撃が始まりました。それに対し、政府は国際人道法に違反する不法な殺害や恣意的な逮捕で対応してきたのです。

2022年現在、アングロフォン地域では71万2000人以上が国内避難民となり、少なくとも390万人が人道支援を必要としています。しかし、パトリックが故郷と国を追われる前も少なくとも10万人のカメルーン人が避難していて、そのうちの1人であった彼はアングロフォン地域に住んでいました。

カメルーン独立宣言から30年後の1990年に、パトリックはマンフェで生まれました。アフリカ西部を流れるクロス川の源流が西からナイジェリアへと分岐し、カメルーンの高地へと流れ込むところに、マンフェという町があります。カメルーン西部のほぼ中央に位置するマンフェには11の自治村に属する約3万2千人が暮らしていて、市場にはパーム油や穀粒、バナナ、ココア、コーヒーなどがあふれています。

「マンフェについて何と言えばいいんだろう?」とパトリックは懐かしそうに言いいます。「人々はとても親切で、とても良い人たちばかり。僕の村では…いや、アフリカ全般で言えることだけど、小さな土地に入ったら、外国人であっても人々の歓迎の仕方にね…きっと、もう帰ろうなんて思わなくなりますよ。」と話してくれました。

マンフェの位置 (Wikipedia)

1.1. カメルーン植民地時代の過去による裂け目

カメルーンは今日戦争が激化しているアングロフォン(英語圏)とフランコフォン(フランス語圏)に分割される以前は、植民地支配によって分割された国でした。ヨーロッパによるアフリカ植民地化が始まった1884年、カメルーンはまずドイツの植民地となりました

ドイツ軍が最初にマンフェに到着したのは、クロス川を経由してのことだったと言われています。新しい地域に到着したドイツ人たちは、川の岸辺で仕事をしていた地元の人に質問しました。彼らの質問が理解できず、地元の男はバヤンの方言で “Mamfie fah?”(どこに置けばいい?)と尋ねました。彼の返答を「マンフェ」と誤解した新参者たちは、こうしてその地域を「マンフェ」と名付けたのです。

マンフェのドイツ橋 (World Travel Server)

しかし、第一次世界大戦中にドイツからの入植者が去ると、1916年に南西部をイギリスが「イギリス領カメルーン」と植民地支配し、残りの地域をフランスが「フランス領カメルーン」と植民地支配して、現在の国土に分断されました。

イギリスによるカメルーン南西部の統治は「放置された期間」であったものの、農業の発展や、この地域のプランテーションを政府所有のカメルーン開発公社に一本化するなどの成果が見られました。しかし、これらの開発はフランス領カメルーンの農業、工業、インフラの発展に比べれば微々たるものだったのです。カメルーン独立間近の1960年代には、フランス領カメルーンはGNP、高等教育レベル、医療制度、インフラにおいて、イギリス領カメルーンを大きく上回っていました。

フランス語圏と英語圏に分かれるカメルーンの地図 (Global News View)

民族主義者とフランス軍との内戦を経て、フランス領カメルーンは1960年1月1日に独立。アマドゥ・アヒジョが大統領に選出され、彼の政党ユニオン・カメルネーズとともに資本主義経済とフランスとの緊密な関係を約束し、統一された独立カメルーンを樹立しました。1966年、同党は後にカメルーン国民民主党(KNDP)と合併して党名を変更し、今日ではカメルーン人民民主運動(Rassemblement démocratique du Peuple Camerounais)またはCPDMとして知られています。1960年の独立以来は、このCPDMがカメルーンの政治を支配してきました。

一方、旧イギリス領カメルーンは岐路に立たされていました。1961年2月11日に国連の監督下で国民投票が実施され、ナイジェリア連邦とカメルーン共和国のどちらかとの統合の二択となり、独立の選択肢はありませんでした。キリスト教徒が多数を占める南部は、イスラム教徒の多いナイジェリアではなく、旧フランス領カメルーンとの統一に投票しました。

今日でもマンフェ、カメルーン南西部全体、そして隣国ナイジェリアは、植民地時代の歴史だけではなく、英語を話すということを共有しています。カメルーンの南西部はしばしばアングロフォン(英語圏)地域、それ以外はフランコフォン(仏語圏)地域と呼ばれていることからも分かる事実です。

当時も現在も、多くの人がこれを「分断」と呼んでいます。しかし、このように無形でありながらますます明確になっていく差異を背景に育ったパトリックにとっては、すべてが無意味に思えました。結局のところ、パトリックの子供時代はカメルーンの多くの若者と似ています。彼が語るように、どこの出身であろうと他者を尊重し、敬い、温かく迎え入れるという態度が浸透しているこの地で、いつも友人や家族に囲まれて育ったのです。

1.2. 父の姿

「アフリカではだいたい父親から学ぶんだ」

7人兄弟の2番目の長男として生まれたパトリックは、アングロフォン出身の母親とフランコフォン出身の父親の間に生まれました。パトリックの母はバクヴェリ族、父はバミレケ族の出身です。このいわゆるカメルーンの「分断」は、パトリックが子供時代を過ごした家の中でさえ見られたものでした。

「私たちの家ではフランス語より英語を話す人もいれば、私のように英語よりフランス語を話す人もいる。とても奇妙な家だったよ。」と笑います。  

パトリックは、彼らが家で英語とフランス語を話し、母や父の言語をほとんど話さなかったことを不思議に思っています。「この地域ではみんなピジン英語(英語と現地言語の混合言語)を話すんだけど、母の言葉を話せないことを本当に後悔した。一度だけ、母に言ったことがあるんだ。『バクウェリ語を話せないのはダメだ。僕たちは母国語で育てられるはずなんだ』って。」と話します。

「別の言語だから影響は大きかったよ」

「両親から高く評価された僕の資質のひとつは、人を簡単に集める術を知っていることです」と話すパトリックは、親しみやすく地に足がついた性格をしており、しばしば友人や兄弟の仲を取り持ちます。例えば友達がガールフレンドとの関係に悩んだときも、パトリックに助けを求めるのです。

「僕にとって、人と話すのはとても簡単なことなんだ。友達はパートナーと仲直りするには僕に助けを求めに来ればいいって分かっていて。いつだって僕には簡単だよ。」

彼の両親の部族はどちらも父系継承が守られていて、長男の役割が重視されているようです。「兄にとっては、人生はただ楽しむものなんです。母はよく僕を呼んで、兄の面倒を見るように言っていたよ。」と話すパトリックは、両親が他の兄弟との争いを整理したり、説得したり、道理を話したりする際に頼りにする子供だったようです。

いろいろな意味で、パトリックは父親に最も近い存在として育ったと言います。「父がまだ生きていた頃、生徒や労働者を集めるために助けが必要なときはいつでも、『パトリック、これを手伝ってくれ』と指名されたものだよ。だから、のちに僕をマネージャーに選んだんだ。」と、優しかった父親は決して攻撃的ではなく、最大のインスピレーションの源だったとパトリックは語り、「父は僕が本当の自分を発見する手助けをしてくれました。」と思い返します。

パトリックの父親も完璧な紳士でした。パトリックは、どのように異なる地域・異なる部族出身の両親が出会ったかを語るのが好きです。「ある日、母が住んでいた近くでパーティーがあって。母がパーティーにいたのはほんの短い時間だったんだけど、父はその日初めて母を見てすぐに好意を持ったんだ。後で従兄弟に『あの女性は誰?』と聞いたらしい。」と説明するパトリックは、女性目当てでパーティーに来たのかと父親をよくからかったそうです。その後、父親は母親に次々と手紙を書き始めました。そしてある日、母親に会うためだけにマンフェに行き、彼女の両親に結婚の許可を求めたのです。パトリックの父親がいかに責任感の強い男であるかを見た両親の答えははっきりとイエスでした。

「父は子羊、母はライオンみたいな人だった。」

子羊でありながら羊飼い、そんなようなパトリックの父親は、マンフェでさまざまな農場を経営する実業家として成功していました。偉大な農夫として地元では人気があり、彼と妻はともに地元の政治家だったそうです。「アフリカでは一般的に実業家なら税金のために政党に所属しなければならないんだ。命が惜しければね。」とパトリックは説明します。

彼の父親がこの地域で成功したことは、さほど驚くことではなかったに違いありません。父親の部族であるバミレケ族の人々は、カメルーンで現金経済が発展して以来優れた農民やビジネスマンとしての名声を確固たるものとし、専門家、商人、職人、労働者として重要な役割を果たしてきました。 

しかしカメルーン共和国歴史辞典は「(バミレケ族は)国民経済において重要な要素となっている一方で、彼らの成功は、特に移住してきた地域の元々の住民の間で嫉妬や恨みも生み出した」としています。  

父系血統の伝統から、パトリックと彼の兄が家業の責任を受け継ぐことも期待されていました。しかし、それ以外にパトリックは、家ではバミレケ族やバクウェリ族の文化を意識的に教え込まれることはなかったと言います。

「大きな問題だったよ。両親はその点では失敗したと思う。カメルーンの家族のなかには、部族の文化を子供たちに教えることを第一に考える人もいるんだ。アフリカでは村の長老たちがそれを受け継ぐべきなのに、私の父はたぶん自分の仕事にしか興味がなかったんだと思うよ。」

パトリックはフランス語とピジン英語以外に父親の言葉は話せるけれど、母親の言葉は話せないと言います。マンフェの彼らの地域では誰もがピジンで会話しているそうですが、パトリックはそれが何かおかしいといつも思っていました。「カメルーンには215の方言があるのに」と、英語とフランス語というたった2つの外国語をめぐって戦争が繰り広げられているという点をパトリックは指摘します。

親しみやすくおおらかで、寛大で快活な感じのするパトリックですが、自分のことを頑固者だと何度も言います。頑固者としての性格が初めて表れたのはおそらく、ちょっとしたトラブルメーカーであったと言う学生時代でしょう。マンフェで育ったパトリックは、中等教育まではフランス語圏の学校に通っていました。「僕は数学が得意だったんだ」と語り、多くの友人たちと繰り広げた冒険の物語を懐かしみます。「校門を飛び越えて教室に入り、校長に叱られたこともあったよ」と笑い、「友達はみんな、僕には僕のやり方があることを知っていたね」と話してくれました。

10代のパトリックは校門を飛び越えるだけでなく、自分の運命も試していたのかもしれません。2007年の17歳のとき、母親は学校や家庭でのパトリックの態度に不満を募らせ、父親はマンフェにいるパトリックの友人たちに難色を示しました。パトリックをマンフェから英語圏の隣村であるブエアに移籍させることを決めたのです。

上辺では平和に見えても、必ずしも平和とは限りません。カメルーンは民族的に多様で文化的に豊かな国で、240の部族に属する2600万人以上の人々が少なくとも250の言語と方言を話します。しかし、1961年にイギリス領カメルーンとフランス領カメルーンが一緒になって以来、時間の経過とともに「再統合」が築かれた基盤は、マンフェ、カメルーン南西部全域、そしてそれ以外の地域でも、学校や政府、地域社会で英語圏の人々が疎外されていることから生まれる不満の高まりを覆い隠してきたのです。

2. ブエア 2007年

カメルーン南西部(英語圏)

「フランス語も英語も僕らの言語ではないから」

17歳のパトリックは、少しずつ大人にならなくてはいけませんでした。ブエアでパトリックの父親が借りてくれた、110世帯ある団地の一部屋に引っ越しました。そして、初めて自分の携帯電話を与えられたのです。 

ブエアの景色 (Achas University)

当時パトリックは中学校の卒業を間近に控えていたのですが、初めての一人暮らしに恐怖を感じていました。子供の頃住んでいた家、故郷、これまで知っていたすべてのものから引っ越すこと、そし愛していた両親と家族を一瞬のうちに置き去りにすること、全て一杯一杯だったと話します。「でも、両親はいつも僕を愛し、支え、僕のためにいることを示してくれたんだ。母は僕に厳しく接することが多かったけれど、引っ越しは母にとって大きな闘いだったよ。喧嘩はまるで小さな戦争みたいだったな!」と笑います。

「母のことをとても愛しているよ」
ブエアの景色 (Journal du Cameroun)

そうは言っても、母親はいつもパトリックを訪ねて、マンフェからブエアを往復していました。 

「怖かったけど、とても興奮していた自分もいた。ついに、僕は空を飛ぶ鳥のように自由になれたんだ!」

ブエアはカメルーン南西部の州都で、カメルーン山の南東斜面に位置します。人口は約30万人で、市内には一定数の高等教育機関があるため多くの大学生が住んでいます。パトリックにとってこの街は新しく、ずっと大きな街であり、チャンスにあふれ、多くの未知の道や人々との出会いがあるのです。 

パトリックはブエアですぐに多くの新しい友達を作ったと言います。「友達を作るのは得意なんだ。マンフェの友達はマンフェにいたままだったけど、ブエアに着いてすぐ今度はブエアの友達ができた。」と話すパトリックは、父親の意向に沿ったのか、「新しい友達は今までの友達と違って、神を恐れる真のクリスチャンだった。当時は自分のこともちゃんと教会にも通う良いクリスチャンだと思ってたよ。」と続きます。

パトリックの順応性、信頼性、行く先々で友人を作る抜け目のない能力は生涯を通じての重要な財産ですが、特にブエアではそれがすぐに認められるようになりました。

2.1. ドバイ・マネージャー

「着いてすぐビジネスを始めるからって」

パトリックはブエアの地で、ビジネスという新たな章をスタートさせます。ブエアは繊維、建設、木材産業が盛んな、行政や貿易の中心地としても知られていたのです。カメルーンの植民地時代の名残や、カメルーン開発公社が所有するヤシやゴムのプランテーションもあり、パトリックが初めてビジネスを始めるのに最適な場所でした。

マンフェの頃から動物への愛情を持って成長したパトリックは、父親のような偉大な農夫になり、父親が経営していた農場よりもはるかに大きな牧場を独立して開き、経営することを夢見ていました。遠くへ行く決心をしていたのです。

「気づかないうちにビジネスをやっていたよ。学校に通いながらでも大農家になるという夢を追いかけていたんだ。」

パトリックは2009年に自分の最初の店をオープンしました。当時若者だった彼は何がスタイリッシュか、同年代の人々が何を求めているかを知っていました。「以前はアディダスやナイキのTシャツを売ったりしていたんだ。キャップやズボンも。ナイジェリアに行ってこれらの服を買い、自分の店のために持ち帰ってたよ。」と説明します。パトリックは、父親と同じようなやり方でビジネスを拡大していき、自分ができないときは変わって商品の入荷をしてくれる同僚もいました。

いずれは自分の店をユニクロのようなもっと大きな店にしたいとパトリックは考えていました。そして時ともに、品揃えを多様化させるために中国やトルコといった他の国へ商品の仕入れの旅に出たいと思っていたのです。「ブエアでビジネスを始めたころは、みんなから 『ドバイのマネージャー』と呼ばれていたんだよ!」と彼は懐かしそうに振り返ります。  しかし2016年末までに、パトリックは店を閉めることを余儀なくされました。彼の地域の人々は、より暴力的になっていく抗議行動から逃げ始めたのです。 

「選択の余地はなかったよ」

2.2. アングロフォンの問題

パトリックはブエアに到着したとき、別のことにも直面していました。「なぜか僕がフランコフォンの人間だと知られていたんだ。フランコフォンの友人たちがいたからかもしれない。」と話します。

「ある日学校から家に帰ろうとしたらドアの前にアングロフォンの集団がいて、『いつ帰るんだ?』と聞かれた。『どこに?』と聞くと、いつ自分の国に帰るんだ?』と言うんだ。だから『俺はカメルーン人だし、ここが自分の国だ』と答えた。するとこう言ったんだ。『ああ、それで俺らがこの国を分断させるんだ。』」

ブエアは今日、カメルーン人にとってアングロフォンのアイデンティティにとって重要な中心地となっています。カメルーン初のイギリス系大学を擁するブエアはかつてイギリス領南カメルーンの首都であり、植民地行政の重要な拠点でした。パトリックは、多くのアングロフォンの人々がこのようなメンタリティで育ち、主に制度的なさまざまな理由でフランコフォンの人々に対してある種の憎しみを抱いていることを知っています。

「多くのアングロフォンがこういう気持ちを抱いて育つんだ」

パトリックがブエアで出会ったアングロフォンの集団の発言は、アングロフォンの中心地であるブエアで何かが動いていることの兆しであったのです。

「フランコフォンの人々はプライドが高いから、分断しても別に良いと思ってるみたいだ。でもアングロフォンの人々にとっては、学校で先生が教えていることを聞けば分かると思うけど、フランコフォンの人たちに対する憎しみがある。」

カメルーンの公的生活がフランコフォンの人々によってほぼ完全に支配されていることに対し、アングロフォンの人々は長い間異議を唱えてきました。エリートであるフランコフォンの人々は経済発展のための資源を自分たちに有利なように配分し、社会的にだけでなく経済的にもアングロフォンの人々を疎外してきたと言われています。例えばカメルーンの病院、銀行、携帯電話会社は大半がフランコフォンなのです。

カメルーンの独立が進み、植民地時代の過去が忘れ去られるにつれ、アングロフォンの人々は自分たちをますます排除する国の政策、構造、態度に不満を募らせてきました。国家試験はアングロフォンの受験生に対して偏見があり、フランス語の教育制度によって実施されます。5つの教育省すべてと、1つを除くすべての予算省はフランコフォンです。国家文書、公告、政府内部の対話ではフランス語が優先され、特に指導者層では、南部地域の判事、アングロフォンの学校の校長、その他政府任命の役人はフランコフォンの出身者が圧倒的に多いのです。  

やがて、憤りを隠せなくなった人も出てきました。アングロフォンの反体制は、分離主義者たちがアンバゾニア共和国の復活を求め始めた1980年代半ばにまで遡ることができます。フランス領カメルーンの準植民地にさせられたと考える人もいました。1961年に国連が課したイギリス領カメルーン「独立」のための国民投票を引き合いに出し、ナイジェリアかフランスかという2つの選択肢しか与えられなかったこと、自治の選択肢がなかったことに疑問を呈する人もいました。英語やピジン英語を話したり、、あるいは英語圏の南西部で育った多くのカメルーン人は、フランス語圏の「その他の地域」に対して不平等であるという思いが、危険なほど根強く残ったのでしょう。 

それから10年後、パトリックが中等学校を卒業し、最初のビジネスを始め、恋に落ち、独立心旺盛な若者としての人生を歩み始めたこの街で、アンバゾニア連邦共和国はカメルーンからの独立を宣言し、ブエアを首都とします。

3. マンフェ再び 2016年

「カメルーン人として それだけ」

カメルーンでは2016年までに状況が変わり始めていました。  その年の12月、カメルーンのポール・ビヤ大統領に書簡が送られましたが、そこには 「アングロフォンの問題」が以下のように定義されていました。

1. 1961年のイギリス領南カメルーンが連邦に持ち込んだものを支持し保護するという憲法の条文の、それ以降のカメルーン歴代政府による怠慢と不履行 

2. 1966年の政党解散と1政党結成、1968年のジュア解任とムナの西カメルーン首相就任など、西カメルーン国民が違憲・非民主的と判断した憲法無視の行為

3. 1961年憲法の根幹をなす要素である連邦制を取り除いた1972年の国民投票の軽率な管理

4. 1984年に制定された憲法改正法においてカメルーンは東カメルーンの名称(カメルーン共和国)となったことによる、西カメルーン人のアイデンティティの元の連合からの抹消、および対等なパートナーとして連合に参加していた西カメルーンの事実上消滅

5. 1961年憲法において両文化を持つ連邦を規定することでの維持・保護が制定されていた西カメルーンの文化的アイデンティティの意図的かつ組織的な侵食

アングロフォン問題は否定できないものとなりました。同月フランス語を話す裁判官や教師がフランコフォンの多い政府によってアングロフォンの都市の裁判長に任命された後、街頭で抗議デモがありました。当初は平和的な抗議活動だったにもかかわらず、これらの人々はカメルーンの治安部隊によって恣意的に逮捕されました。各地でのストライキや暴動は警察との激しい衝突へとエスカレートし、デモに参加した弁護士、教師、学生、活動家たち数人の死傷者を出したり逮捕につながりました。抗議の最初の1ヵ月までに、少なくとも100人が逮捕されたのです。 

国際的な権利団体は、治安部隊による違法で過剰な武力行使の緊急調査を要求し、圧力をかけ始めました。2016年以降のカメルーンでの出来事は、国際ニュースでアングロフォン危機として知られることになります。11月、ブエア大学の学生たちは、学生組合の禁止と大学諸費用の導入に反対して平和的デモ行進を行いました。学生たちは残忍な弾圧を受け、自宅で逮捕された人もいました。女子学生は「殴られ、服を脱がされ、泥の中に転がされ、1人はレイプされた」とされます。

パトリックはブエアの店先で、戦争勃発の兆しから逃れて避難する人々の波を見ていました。彼の店を訪れる客は日に日に減っていきました。結局、パトリックは店をたたむしかなく、荷物をまとめてマンフェに戻りました。父親が彼の信頼性とビジネスのノウハウを知っていたことから、元々参加しようと考えていた家族経営の農場の監督者に任命されたのです。パトリックは自分のビジネスに戻るのを時間をかけて待っていました。

「僕たち全員が、この状況は一時的なものだと考えていたよ。」

戦争はほんのしばらくの間だけだろうと誰もが思っていました。人生の一瞬の出来事だと。「戦争が終われば、どの人も、すべてが元通りになると思ってたよ」とパトリックは話しますが、実際にはそうではありませんでした。アングロフォンの人々、フランコフォンの人々、旧イギリス領カメルーン人、旧フランス領カメルーン人など、言語や生活の境界を越えて英語圏の危機、カメルーン内戦の紛争は今日まで続き、国中に火のように広がっているのです。  

2017年になると、カメルーン軍とアンバゾニア国防軍やその他の分離主義勢力との間の戦闘がマンフェで頻繁に行われるようになりました。そしてその翌年、共謀者たちがパトリックの実家に火を放ったのです。パトリックは自分の命と自由のために走る長く困難な旅を始めることになりました。そしてそのときからずっと走り続けているのです。

「マンフェ、ブエア、ドゥアラで育った日々は、人々は相手がフランコフォンかアングロフォンのどちらかしか見ていなかった。でも自分は自分をどう見るかだったんだ。」とパトリックははっきり話します。 

「僕は自分をカメルーン人として見ている。自分を英語圏の人間としてしか見ないのは父を拒絶することだし、フランス語圏の人間としてしか見ないのは母に出て行けと言っているようなものなんだ。英語もフランス語も、そもそも僕たちの言語ではない。僕が分かっているのは、ただ自分はカメルーン人であるということだけ。」