止まった人生:カメルーンから日本への旅

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「その瞬間僕は世界で一人ぼっちだった。まるで全世界が敵のように。」

「僕の人生で動いているのは…年齢だけだよ。」

パトリックは過酷な森をくまなく歩き、狭い路地を走り、国土の半分を横断し、海を越えました。ロマンチックに聞こえるかもしれませんが、これは魅力的な冒険の物語ではなく、戦士の物語なのです。

祖国を追われたパトリックはカメルーンからはるばる日本まで移動しなければならなかったのですが、実際には、心と魂が麻痺したまま、慣性が彼を突き動かしているだけでした。日本に到着した後も、保護と引き換えに移動の自由を諦めなければならなかったのです。そして今、彼の人生で動いているのは年齢だけだとパトリックは言います。このセクションでは、その理由を語ってくれます。

1. 「生きるか死ぬか」が「逃げるか逃げないか」を意味する時

最も危険な脅威が自分に降りかかった時、誰しも逃げるときが来たと思うことでしょう。パトリックがこの結論に達したのは2018年9月のことでした。森に隠れ、すべてを失った後、彼は友人のフランクリンが言ったことが真実だと気づいたのです。フランス、イギリス、カナダ、あるいはアメリカに行き着くことになるだろうと考え、逃亡の手配をするために携帯電話の残りのバッテリーで何度か電話をかけました。驚いたことに、選択肢は日本しかなかったのです。「誰かが日本を勧めてくれたんです。そのとき僕にとって本当に必要なのはカメルーンから逃げることだけだった。」と振り返ります。

世界中のありとあらゆる国の中で、なぜ日本だったのでしょうか?日本人を見たこともなく、日本語のような複雑な言語を学ぶ想像もしなかったパトリックにとって、日本は一瞬たりとも頭に浮かばなかったため、その話は断りました。2日後、彼が以前連絡を取ったことがある男性から電話があり、国内外への渡航をサポートすることで有名な人だったのですが、カメルーンの女子バレーボールチームが日本でプレーしていてパトリックはそのチームのスポンサーとして飛行機に乗れること、その男性にパスポートと7,000米ドルを渡すだけでよいことを説明されました。

パトリックは、考える間もなく、お金とパスポートを取り出してその人に渡すように友人のフランクリンに指示しました。フランクリンはその要請を受けてこの男性が信頼に足る人物かどうか疑問に思い、詐欺ではないかとの心配もしましたが、パトリックにはそんな心配をする心の余裕も、他に失うものもありませんでした。

「この国から出るためならなんでもしてくれ」
「2日後に生きているかも分からなかったんだ」

それからフランクリンは、パトリックの書類とともに2,500ドルの前金をその男性に渡しました。 それでもパトリックは森の中に隠れて果物を食べながら、カメルーンから日本への旅が始まるのにすべて手筈が整うまで、更に1週間待ちました。

パトリックは森の中でひとりだったかもしれませんが、この運命は彼だけのものではありませんでした。多くのカメルーン人が家を離れることを余儀なくされてきたのです。2022年12月31日現在、UNHCRは国内避難民を含む2000万人以上を要配慮の対象としており、この数には47万人余りの難民と9千人ほどの庇護希望者が含まれています。このため、ビザを見つけるのはそれほど難しいことではありません。パトリックが述べたように、カメルーンの人々や当局にとって人々の国外移住を手助けする闇市場が存在することは周知の事実で、それはたいてい、口コミで広まっているのです。庇護希望者は危険で不安定な状況に置かれているため情報へのアクセスが妨げられ、難民申請するための法的書類を入手することもできないことから、そのような非正規な方法に頼るしかありません。実際、彼らの多くは、自分たちが他国に庇護を求める権利を持っていることすら知らないのです。

言い換えれば、庇護希望者が思いつきで出国を決めなければならないのは、最終的に規則や自らの道徳観に反する行動を取らざるを得ないことがあるからというだけでなく、出身地の腐敗した背信的な体制が彼らに他の選択肢を残さないようにしているのです。パリックも「選択の余地がないこともあります。それは僕たちのせいではなく、僕たちに犠牲を強いているのは彼らなんだ」と語ります。しかし、誤った情報や無知な視点から見ると庇護希望者は悪者や不法侵入者とみなされるため、新しい国に到着した時点で差別や拘束を受けるという問題点があります。経済的な余裕がないと共に命の危険にさらされている多くのカメルーン人の多くが、そのことを聞いて国から出たいと願いながらも、結局はカメルーンに留まることになるのです。しかし、パトリックには森からヤウンデの道以外、もう歩める道がなくなってしまいました。

ブエアからヤウンデへの経路 (Google マップ)

パトリックは自分の道を歩み始めました。ある村に向かうと、通行人が500フランでバイクでブエアまで連れて行ってくれると言ったそうです。そこで彼は、服の入ったバッグを持ってきたフランクリンに会いました。「本当に悲しかった。泣いていたし、汚れてもいた。着替えられるよう服を持ってくるよう頼んだんだ。2週間も茂みの中にいたから、着替えることもできなかったし、風呂に入ることもシャワーを浴びることもできなかった。すごくきつかったよ。」と話すパトリックが親友フランクリンに会ったのは、これが最後でした。

体を洗った後、午前2時にパトリックはヤウンデ行きのバスに乗りました。注目を浴びないように息を潜めているような6時間はどれほど長かったことでしょうか。いつ身元がバレて死刑宣告を下されるかも、最も恐ろしい敵が隣に座っているかも分からず、命からがら逃げ続ける6時間は、いったいどれほど長いことでしょうか。

「あの夜は自殺行為だった」
「もし警察に捕まったらまず書類を持っていないと言おうと思ったんだ」

カメルーンを移動するときに大変だったのは予測不可能な警察の取締りだったとパトリックは説明しました。カメルーンと違って、日本では交通整理の一環として検問があり、警察が日常的に車両を検査し、流通を規制しています。一方、カメルーンでは「抜き打ち検問」があって、犯罪行為の抑止を目的に、警察が必要と判断して無作為に設置されます。しかし、意思決定のトップレベルに存在する腐敗は必然的にその下のすべての層に浸透し、警察が検問なしで通す代わりにドライバーから賄賂を要求することが一般的になっているのです。「賄賂を渡して通らざるを得ないこともある。必要なものはすべて持っていたとしてもね。時には賄賂を余儀なくされることもあるんだ。」と説明します。

ヤウンデでの警察による検問の様子 (Mimi Memo Info)

別の言い方をすれば、人々自身がこの非合法なシステムへの関与を望んでいるのではなく、むしろそれが常態化しているために、選択肢のない状況に追い込まれているのです。腐敗した制度は腐敗した結果をもたらします。パトリックが日本に出発する前、空港のセキュリティーを通過するために業者に頼らざるを得なかった理由もこのことから説明できます。英国最大の難民支援組織である英国赤十字は、次のように説明しています。「迫害に直面しているほとんどの人にとって、チケットを買って飛行機に乗ったり、車で他国に入ったりすることはそれほど単純なことではありません。潜伏を余儀なくされ、外国大使館が閉鎖され、空港や駅が利用できなくなることもあり、そうなると残された道で出国するしかないのです。国連難民条約は、難民が有効なビザで入国できないのは多くの場合正当な理由があることを明確にしています。」

パトリックはヤウンデに到着して数時間後、公園でその業者に出会いました。その男性はパトリックの疲れた様子を見て、回復して残りの必要なステップの手配をするためにと家に招待しました。ビザ代金の精算、国境管理官への賄賂の計画、入国手続きの最良の方法の決定などです。

「とにかくあの場所から去りたかった」
「まずは保護 行き先で保護してもらうこと」

ビザ付きのパスポートを手に入れることは、パトリックがようやく安全で安心できる場所にたどり着けることを意味すると思いました。しかし、目の前にある現実は知る由もなかったのです。

パトリックはヤウンデからドゥアラの空港に移動し、女子バレーボールチームの他のスポンサーとともに日本行きの飛行機に乗りました。その日は土曜日で、カメルーンの人たちは教会に行ったり、用事を済ませたり、家族や親しい人たちと集ったりする日でした。しかし、パトリックにとってはその瞬間から普通の土曜日が色あせた夢のように感じられるようになるのです。

2018年9月29日、羽田行きの飛行機を待っていたその日、彼はもはや誰の息子でも兄弟でも友人でもないような気がしました。普通ならそのような旅に伴うはずの冒険のスリルは虚無感に取って代わられ、フランクリンが彼のために持ってきてくれたわずかな衣服を入れた小さなスーツケースしか持っていなかったにもかかわらず、失ったものの重さは耐え難いものでした。危険を潜り抜ける思いで、彼は体を引きずるようにして飛行機に乗り込みました。

カメルーンで平凡な土曜日を友人と楽しむパトリック

2. 双六:振り出しに戻る

10月1日、パトリックは「日出ずる国」に到着しました。しかし、彼の心の中では太陽はすっかり沈んだようでした。バレーボールチームのスポンサーとされる7人のカメルーン人とともに、パトリックは心配そうに入国審査を待ちました。前方の女性がゲートをくぐるのを見ると、まるで双六のように「自由」というゴールのスペースまであと数マスのように感じだと言います。しかし、パトリックが順番にやって動き出すと、厳しい一撃が待っていました。入国は拒否され、彼は振り出しに戻ってしまったのです。

「所持金が足りなかったらしい」
「『悪いけど国に帰ってくれ』と言われた」

何の説明もなく逮捕されたパトリックは呆然としたままでした。食事も水も与えられず、4人のカメルーン人と一緒に部屋に入れられ、3日間拘留されたのです。何の説明もなく、自分の弁護をするための面談もなく、ただの暴力的な沈黙が続きました。パトリックは眠ろうとしました。6時にシャワーを浴びる時間になったのですが、水が非常に冷たかったので拘留中に一度だけにしました。一番つらかったのは空腹感でした。

「『何でもいいので食べるものを買ってきてください』とお願いした」

10月4日、パトリックは突然強制送還命令を受けました。残酷な悪夢から覚める間もなく、遠い昔と思える日々に自分の故郷であった国へと向かう飛行機に乗せられたのです。  多くの庇護希望者がそうであるように、パトリックにとっても、逃れようとしている国への送還は死刑宣告とほぼ同じでした。そのため国際人権法は、拷問刑やあらゆる人権侵害などの危害を受ける危険のある場所に国家が個人を送り返すことを禁じています。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が1951年難民条約の第33条と1967年議定書で起草されたこのような法律はノン・ルフールマンの原則と呼ばれ、身分を問わず例外なくすべての個人に適用されます。日本は同条約の加盟国であるものの条約の規定の適用は制限的で、保護の原則に必ずしも沿っていないとの批判もあります。日本に到着したとき、パトリックは一般的な条約を知りませんでした。これは庇護希望者に共通する特徴であり、たとえそれが国際法に反していたとしても、受け入れ国の指示に対して無防備な状態になってしまうのです。

パトリックがこれまでに直面した苦闘に加え、退去強制令ではなく出国命令の対象になるという選択肢すら与えられませんでした。自発的な出国を促すため収容せず簡易的な手続きで行われる出国命令は、退去強制令と比べ、5年ではなく1年以内の再入国が認められ、犯罪行為とはみなされません。しかし残念なことに、パトリックは強制送還の結果や拘留されていた3日間に行われる手続きについて入管から知らされることはなく、聴聞を求めたり、日本滞在の特別許可を求めたりする機会も与えられなかったのです。彼はまた、入管から本国当局に自分に関する情報が伝えられ、事態が悪化するのではないかという不安にさいなまれていました。

退去強制令と出国命令の違いが分かるフローチャート (出入国在留管理庁)

数ヵ月後、彼は弁護士から、強制送還の理由はホテルの予約がなかったことと、生活費に足りない200ドルしか所持していなかったことだと知らされました。正式な滞在資格がなかったり、ビザや入国書類に虚偽の情報を提供したりすると強制送還に繋がる可能性があることは外務省は明記していますが、十分な資金や宿泊施設の手配がないと逮捕される可能性があると明確に述べている法律、文書、規則はありません。パトリックにビザについて尋ねると、「日本に到着したときも、ビザが偽造でないことを確認してもらったんだ。『私のビザは偽物ですか?』と尋ねたら、『違う』と言われたよ。」と答えてくれました。外国にスムーズに入国するためには、十分な資金を持ち、宿の手配をすることが重要であることは頻繁に旅行する人の間では常識ですが、庇護希望者は単なる旅行者ではなく、そのような情報を知ってアクセスできる状況にありません。加えて、日本の外務省のウェブサイトでは英語でのサポートはほとんど提供されておらず、提供されている説明もかなり曖昧か不明瞭です。このため、庇護希望者が日本で庇護を求める際の責任と権利を理解することは困難なのです。

退去強制令に関するQ&A (出入国在留管理庁)

しかし、実際のところそんなことはパトリックの頭の中にまったくなかったのです。苦い過去と新たな悩みのぶつかり合う流れの中を泳いでエネルギーを消耗していたため拘束されていたこの数日間をはっきりと思い出すことはできず、ただ浮かんで漂い、気がつくとスタート地点のドゥアラの空港に戻っていました。

「あの時僕は世界の全てを失った人だったんだ」

3. 日本への渡航の再挑戦

カメルーンに帰国時に入国審査で身元がバレるのではないかと恐怖に怯えていたパトリックでしたが、出国時に手伝ってくれた審査官がまた通してくれたそうです。空港の外に出ることはまた命の危険に晒されることでしたが、もう全て終わりだと思っていたパトリックは隠れようとはしませんでした。

突然父の名を呼ぶ声が聞こえて、パトリックの体のしびれは強烈な恐怖によって破られました。もう1度名前が呼ばれたのでパトリックは頭を下げ、震える手をポケットに隠し、苦悩を隠そうとしました。その名前が繰り返されるたびに見知らぬ男が近づいてくるような恐怖が強まり、逃れようとしたものすべてがついに自分に届いたのがわかりました。彼は死を迎えたのです。

と思いきや、驚いたことにその男性は親切で、パトリックに恐れないよう促しました。自分がかつて父親の友人であったことを説明し、パトリックの家族に起こったことを聞いたと言ったのです。パトリックは自分の身元を否定することも考えたのですが、もう失うものは何もなく、自分の身体的特徴からそれでも父親との関係がわかることに気づきました。そこでパトリックは抵抗の末、ドゥアラにあるその男性の家に身を隠すことに同意しました。彼の家の小さな部屋に隠れていたパトリックは、犯罪者とはほど遠いにもかかわらず、自分が自国の囚人になったような気がしました。

「僕の人生で本当に悲しい時だった」

部屋に隠れて3週間が過ぎました。パトリックは携帯電話を処分した方が身のためだと言われたので誰にも連絡できず、故郷のニュースも読めず、自分の可能性についての情報も読めず、読書で時間をつぶしました。聖書は彼の愛読書であり、特にヨブ記に慰めを見出しました。ヨブ記とは、大きな喪失感に苦しみながらも、やがて神によってその信仰が報われるまで、困難にもかかわらず神に忠実であり続ける男の物語です。ヨブ記は彼の人生に希望を取り戻し、カメルーンを去るという考えが彼の心に戻ってきました。生き残って自分の人生を生きたいと思ったなら、カメルーンを後にしなくてはいけなかったのです。隣国への移住も考えたのですが、父親の友人が日本への再渡航を勧めました。「『日本へ戻りなよ』というから、『どうやって?日本に戻るビザを取得するのは今は不可能だ』と答えたんだ。そしたら友達はこう言った。『可能性はあると思うよ。何でも解決策は常にあるんだ。今度は日本に着いたら、難民であることを伝えるんだ』とね。」

パトリックが難民という言葉を聞いたのはこの時が初めてで、その意味も、自分がどう当てはまるのかもよく理解できなかったと言います。インターネットから遮断されていてその重要性を深く掘り下げることはできなかったのですが、いずれにせよ、今はそれどころではありませんでした。逃げることが最優先だったため、この言葉は次第に彼の頭から消えていったのです。それが彼にとって新たな意味を持ち、自分自身を難民と考えるようになったのは、それから数ヶ月後のことでした。

「実のところ難民の意味も知らなかったんだ」
「日本に着いたらどうすれば良いか分かったよ」

Googleで「難民」を検索すると、ニュース記事、辞書の定義、寄付サイトなど、6億3600万件がヒットします。これらの資料の言葉は時に法律用語で埋め尽くされ、挙句の果てには「移民」「庇護希望者」「避難民」など、難民と混同してはならない重複する用語も多数あります。この言葉を知ったばかりの人や、すべての資料に目を通す気力も能力もない人にとって、この情報は圧倒されかねません。さらに難民という言葉に自分が当てはまるか確かでない人にとっては、自分は難民でないという結論に至ってしまうこともあるのです。言い換えれば、難民とは経験を示す法的地位しかなく、難民はその経験を終わらせたいと願いながら生きているものなのです。難民である誰もが、自分自身をただそのような存在だけだとは見なしたくありません。難民という言葉を否定したり社会的な影響を恐れたりすることで、受け入れ国に到着してから難民申請をすることを躊躇してしまうのです。

難民という複雑なレッテルを無視して、パトリックは自由という目標に集中し、より良い未来に向かって一歩を踏み出しました。彼の最大の関心事はカメルーンから出国することでした。そこで以前出国を手助けしてくれた書類業者に連絡すると、その業者は彼に、日本へのビザはすでに持っているので羽田の入国審査で押されたスタンプを剥がす費用を払い、今度は別の空港に到着すればいいのだと説明しました。パトリックはフランクリンに電話して自宅に残してあった2700ドルほどのお金を取り戻してもらうと、まるで魔法のように、強制退去のスタンプがなくなったと言います。パトリックは不安でたまらなかったのですが、安全で自由になるために他に選択肢はありませんでした。彼はその後ヤウンデに向かい、スムーズに通過するために再び入国管理局に700ドルを支払わなければなりませんでした。暗闇に身を潜めてから2ヶ月後の2018年11月30日、パトリックは目の前の不安に勇敢に立ち向かい、今度は成田に向かって日本行きの飛行機に乗ったのです。

4. 強制送還への必死の抵抗

12月1日、パトリックは希望と恐怖が入り混じった気持ちで成田空港に到着しました。自由を与えてくれる入国ゲートまであと数歩でも、過去の経験から警戒心を抱いていました。彼の指紋を取る入国審査官が別の係官にジェスチャーをした瞬間、それが何を意味したか分かったと言います。だからその後に連行され、7時間待たされても驚きませんでした。パトリックは一日の大半を狭くて暗い部屋で過ごすようになり、まるで地球が徐々に小さくなって自分の周りを取り囲み、光が差し込む隙間がすべて閉ざされていくように思えました。夜中の2時に面接に呼ばれると入国スタンプの偽造について質問されて、パトリックはそれを認めました。

日本の審査官は決して暴力的でも攻撃的でもありませんが、その控えめな態度は時に無反応で近づきにくいと受け取られることもあります。説明するよう求められると、パトリックは自分と家族が直面した危険と人権の侵害を説明しました。しかし審査官たちの答えは翌日のカメルーンへの送還でした。それでも、出国命令とし1年後には戻ってこれるよう、自発的に帰国するようアドバイスがあったと言います。けれどパトリックは理解に苦しみました。というのも入管の説明によれば、外国人が退去強制令ではなく出国命令を受けることができるのは「日本からの即時出国を申請していて、違反はオーバーステイのみで窃盗その他の一定の犯罪で禁固刑に処されておらず、過去に強制送還や出国命令による出国をしたことがなく、速やかに出国することが確実である場合 」に限られるからなのです。パトリックはすでに1度退去強制令を受けているため、1年後に入国許可が下りる可能性は極めて低かったのです。日本は4月からはさらに多くの外国人を受け入れるようになるなどとも言われたそうですが、それにも裏付けはありませんでした。

出国命令と退去強制令 (行政書士篠原たかゆき事務所)

とはいえ、パトリックには疑心暗鬼になる気力すらありませんでした。彼の頭の中にあるのはただひとつ、カメルーンに帰らないということだけだったのです。帰国することがもたらすリスクは、パトリックにとって外国での拘留を望むのに十分でした。その時は自由にはなれなくても、生き延びるということは、少なくともいつか自由になれるかもしれないという希望を持つということだったのです。

パトリックはその申し出を断り、結論が出ました。庇護希望者を送り返しては行けないというノン・ルフールマン原則に反して、翌日カメルーンに送還されることになったのです。彼は難民法について何も知らなく、係員からの説明もありませんでしたが、これは不当なことだと確信して自分の力で抵抗できることはすべてしようと、「飛行機に乗って帰るのは俺の死体だけだ」と決心したと言います。

「『それでも着きさえすれば良い』と思ったんだ」
「面接の前から向こうの答えは決まってるんだ 」

「行く時間です」と言う声と静かにドアをノックする音でパトリックが久しぶりの深い眠りから目覚めたのは、午後6時でした。「時計も電話も何も持っていない。彼らは何もかも持っていったから、今が何時なのかさえ分からなかった。」と話します。午後9時40分発のカメルーン行きのフライトがある搭乗ゲートまで、彼は審査官の運転する電動カートで連れて行かれました。混雑しており、保守的な日本人を愕然とさせて当局に抵抗するようなちょっとした反乱を起こすには絶好の舞台でした。

パトリックは反抗的ながらも確実に上着のボタンを外し、床に脱ぎ捨てました。何人かの視線を浴びましたが、単に暑かったのだと思われたことでしょう。次にセーターを脱ぐと、審査官が彼の行動を怪しく思い始めました。パトリックは「別に良いだろう」と徐々にTシャツの裾を掴んで引き上げ始め、黒い肌を露わにしました。森の中で2週間も寝ていたので、何も怖くはありません。そして、その場にいた誰もが一言も発しないうちに、パトリックはシャツを脱ぎました。同行していた4人の審査官は唖然としながらも警戒し、彼を取り囲んで覆い隠そうとしました。

「『頼むからシャツを着て』と言うから『嫌だ』と答えたよ」
「何ができる?帰ることは絶対にできない」

それはとんだ脱衣劇でした。パトリックは自分の服を剥ぎ取り、それに呼応するように入国管理局は彼の持ち物、連絡先、睡眠、そして最終的には自由を剥ぎ取りました。再び、パトリックは小さな密室に連れて行かれました。日本語で怒鳴る審査官がいたのですが、パトリックは落ち着いていました。「僕の耳元で叫んでいたけど、僕はとても落ち着いていた。本当にあの瞬間は僕はすべてに対して準備ができていたんだ。『説明しろ』と言われたけど、『力ずくで従わせれば良い』と言ったよ。ただ殺すんだったら早くやってくれと。」と当時を振り返ります。

5. 涙の入国者収容所

「『これからあなたを収容しますが、いつ出られるかは分かりません。』僕はこう答えた。『構わない。少なくとも命は助かる。』」

面接は午前3時まで続きました。パトリックは食事も水も与えられず、職員たちは「協力しなければ収容所に入れる」と主張し続け、その場所が具体的にどんなところなのか言わなかったのですが、その名前とこれまでの経験から、パトリックはそこが刑務所のようなものだろうという印象を受けました。

その印象は間違っておらず、成田空港での36日間の監禁がその印象を物語っていました。東京郊外のこの空港で拘留されていたパトリックは毎日執拗な取り調べを受け、時には1日に2回も呼び出されたました。電話や対面による通訳サービスがあったものの、審査官たちはパトリックを日本語で尋問し、どんなに熱心に耳を傾けているように見えても、パトリックを危険な祖国へ強制的に帰国させることだけが目的で、各面接の結果はすでに決まっているように感じたと言います。入管は毎日同じ質問をする傾向があり、時にはパトリックの服装や食事の選択といった些細なことを聞いてくることもありました。このような執拗な詮索は、入管がパトリックの話の矛盾点を見つけ、彼を嘘つきに仕立て上げる手段としてこの面接を利用しているのだという疑いを強めるだけでした。犯罪者のように扱われる理由を明かそうとしないので、パトリックは彼らの無関係な質問に答えることを断固拒否し続けました。「拘留に対するストレスが本当に始まったのはこの時だった。僕が頑固になるまでね。頑固になると向こうの態度は少し柔らいだよ。」と話します。

パトリックが指摘したように、日本における庇護希望者や難民の面接プロセスは、信じられないほどのストレスの連続です。申請者は何度も面接を受ける中で、自分の苦難を語り、難民認定が必要であることの証拠を提出しなければなりません。一時的な許可や仮放免が下りたとしても、庇護希望者は依然として頻繁な補足質問や入管への訪問を必要とされるのです。

難民や庇護希望者は、PTSDやうつ病などの精神障害のより高いリスクにさらされています。彼らにとって、心の健康を損なう脆弱性があまり語られていないだけでなく、トラウマ的な体験を常に語り、つらい過去を追体験させられることによって悪化する可能性もあるのです。トラウマを抱えた難民が辛い経験を共有できるようになるには、トラウマを処理し、十分な信頼関係を築くための時間が必要です。実際、ドイツでは庇護希望者が入国時に求められる「協力義務」が、到着後のストレス要因に繋がっているという指摘もあります。日本の入管の面接で適用される方法は、ドイツと同様に刺激的で精神的に有害であり、パトリックが成田に拘留されている間に受けた面接の頻度は、心理的な暴力であったとさえ言えることでしょう。

2018年12月11日、ある面接の際に入国審査官はパトリックに難民という言葉が彼に当てはまるかどうかを尋ねました。混乱したパトリックはその意味を尋ねると、答えはただ記入するための用紙を渡されただけだとのことでした。牛久収容所に移送されてから他の被収容者の体験談を聞いて、初めて自分も難民であることを理解したのです。

「日本の制度では認められてなくても、自分は難民だと思う。だから僕は難民だ。」

2019年1月4日、新年早々パトリックにとって状況が好転するように思えました。その日彼は成田で最後の面接を受け、他の難民と出会うことになる収容施設に移されることを説明されました。しかし「願いごとはは慎重に」と言われるように、この希望は諸刃の剣に終わる可能性もあったのです。

「難民キャンプみたいなところに連れてかれるんだと思ったんだ」

「世界中に知ってほしい。日本は被収容者を刑務所に入れていると。」