1. 旅の始まり
1.1. その場での圧力
「ここにいて誰からも攻撃されないなら、戻って攻撃されるよりずっといいです。」
日本で庇護希望者が収容されるまでは速く、一連の健康診断を終えると面接室に案内されて、警官が来て質問されのを待ちます。これが庇護希望者を2つのグループに分けるプロセスで、1つは日本を出て母国に帰ることに同意する人たち、もう1つはさまざまな理由で帰れない人たちです。母国に帰ることに同意しない人は面接室に連れてこられ、自分の経験や帰れない理由を聞かれます。このような「質疑応答」のセクションは、伝統的な1対1の面接スタイルでは行われません。庇護希望者は多くの警官がいる部屋に入れられるのですが、警官が多ければ多いほどストレスフルな緊張感を与えて庇護希望者を怖がらせたり、プレッシャーをかけたり、脅したりすることが容易になるようです。サナも同じように面接室に入れられましたが、そのときは10人の警官が一緒でした。警官たちはサナに日本を離れるよう懸命に説得し、収容施設での生活は厳しいものになるだろうと告げました。サナはガーナに戻れば命が危険にさらされることを説明し、「ここにいて誰からも攻撃されないなら、戻って攻撃されるよりずっといいです。」と言いました。収容されるとなっても希望は失っていませんでした。帰国して死に直面する方がよっぽど怖かったのです。日本に残ることで彼が失うのは移動の自由だけで、ガーナに戻るということは、家族を危険にさらし、いつ命を落としてもおかしくないということでした。サナは自分の言いたいことをはっきり言ったのですが、警官たちはまだ彼を説得しようとより積極的になっていました。
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部屋に連れて行かれたは、職員から圧力をかけられました。このように扱われた難民申請者はサナだけではありません。日本に滞在したいと願う難民申請者は、全員がこのプロセスを経ています。日本から出て行ってもらおうと、職員は難民申請者を怖がらせることがあると言われています。例えば、難民申請者同士を対面させて脅かせるケースもあります。そのような圧力の下、一部の者は自国に戻ることを承諾し、サナのように残る者もいます。サナは当時落ち着いていたため、怯むことはありませんでした。しかし、抵抗したために暴力的な扱いを受けた難民申請者がいることも知っていると話します。

サナはどうかというと、勇敢にも、将来起こりうる困難を乗り越えられるという自信を持っていました。自由に動き回れないことを気にせず、最大の関心事は、ガーナで死の影や殺されることから解放されることでした。そのため、厳しい態度を取られても怯むことなく、安全だと信じていた日本に留まることを決めたのです。しかし、留まるという決断が、収容所で経験したすべての苦痛の始まりだったということは知りませんでした。
2. 身体的な苦しみ
サナは、日本で収容されてから「僕の体にはなかった」というさまざまな病気を発症したと言います。その原因となった問題について、まず、1つの部屋に収容される人数が多すぎるのです。例えば、一部屋に多くの人がいたのにシェーバーは全員でひとつだけで、血液を介して感染するB型肝炎の被収容者とも共有するしかありませんでした。このように、衛生状態のレベルの低さは多くの問題を引き起こし、被収容者間に病気を蔓延させたのです。


2.1. 拒否された治療
収容施設の被収容者は、適切な健康診断を受けていないことがよくあります。被収容者が体調不良を感じると、まず申請書に記入するよう求められるのですが、その人に助けが必要かどうかを判断する役割は、必須である医学知識を持たない看守が担っているのです。その結果、収容施設の「医師」に拒否された被収容者の症状は悪化してしまいます。サナは適切な薬をどんなに強く要求しても、鎮痛剤と睡眠薬しか与えられませんでした。それらの薬を飲んでも病気は治らず、それどころか、他の被収容者も、適切な医療ケアがないまま症状が悪化することが多かったのです。
治療の回答を待つという絶望的なプロセスを経験したのは、サナだけではありません。健康問題に苦しむ被収容者のケースは他にもたくさんあります。ある人は一定レベルの医療を受けることができたのですが、またある人は適切な医療を受けることができず、症状に耐えなければならなかったのです。サナは収容所に滞在していた間、同じく病気に苦しみ、医療ケアの不足のために2021年に名古屋収容所で亡くなったスリランカからの別の被収容者のことを知っていました。看守に無視され、計り知れない苦痛に耐えてきた彼女の闘いは悲痛なことでした。サナは収容所の残酷さを目の当たりにして自分もまた大変な思いをするのだと悟るようになったのですが、それと同時に体調が悪化し、さまざまな病気の症状が出てきました。

(The Japan Times)
2.2. 自分のための前進
スリランカ人女性のケースを繰り返さないように、サナは自分自身のために立ち上がりました。適切な治療を求めて、体のどこが悪いのかを知るために正確な健診ができる資格を持った医師のいる病院に連れて行ってもらうことを要求しました。勇敢にも自分から前に出て、治療に対する強い意志と態度を示したサナでしたが、彼の要求は簡単には通らないでしょう。特に収容所では、被収容者はトラブルに見舞われてしまうのが必然的なのです。

死を嘆き悲しむ女性 (Reuters)
2007年から2022年まで、日本のすべての収容所での死者は計17人になりました。被収容者が必要とする適切な医療を受けることができなかったのです。希望があり、治る可能性があったにもかかわらず、医療処置が遅すぎたために死亡した人も少なくありません。例えばアフリカのカメルーン出身の男性被収容者は、2014年、医療を受けることなく放置されたまま命を落としました。その人は2月から深刻な胸の痛みと呼吸困難を訴えていたにもかかわらず、施設側は助けを求める彼のサインを真剣に扱いませんでした。同年3月、彼が心停止に陥ったことが分かって初めて救急車を呼んだのです。このような収容施設の雰囲気の下で、適切な治療を受けたいというサナの願いは拒否される運命にありました。
2.3. 暴力的な抑圧
「彼らは20人以上で私を床に押し倒し、首を押されました。何もできなかった。」
サナが自分の権利のために戦おうとすると、必要な病院に送られるどころか力づくで抑えられました。「座っていた椅子につかまったら、彼らはさらに僕を引きずって押し倒したのです。」とサナは説明します。病気で苦しんでいる患者であったサナに看守は暴力的な扱いをし、無理やり部屋に戻そうとしたのです。サナは13分間あきらめなかったのですが、次第に弱くなっていきましたた。その結果彼の行動は看守の機嫌を損ね、その後4日間懲罰室に入れられました。
3. 心理的な苦しみ
3.1. 看守が生み出す困難
「生活がつらくなると居ても立ってもいられなくなって、諦めて出て行きます。彼らがやっていたのはそういうシステムなんです。」
被収容者が直面する困難は肉体的苦痛だけではありません。心理的苦痛も、被収容者に圧力をかけるためによく使われる方法です。このような精神的苦痛は身体に直接的な暴力や傷害を与えるものではありませんが、人の幸福に多くの問題を引き起こします。サナが経験した主な精神的苦痛のひとつは、「懲戒」措置の一環として他の被収容者から隔離されることでした。入管法では暴行や職務妨害などを理由に隔離することを許しており、隔離件数は年々増加しています。収容施設では被収容者が友人を作って付き合ったりするなど、楽しむことは許されません。親しくなると別の居室や収容施設に移され、離れ離れになります。被収容者たちが楽しく一緒に暮らしているのが分かると、一時的にお互いから遠ざけられるのです。
看守が引き起こすもうひとつのありがちな困難は、友人や家族から送られた荷物がうまく被収容者に届かないことです。歯磨き粉やボディークリームなどの日用品はもちろん、食料品でさえも日本語でなければ許可されません。サナがイギリスから送られてきた歯磨き粉だと説明しても、真実がどれほど明白であっても、荷物が英語で書かれているというだけで看守は信じようとしないのです。サナはそれが信じられず、「とても頭にきて喧嘩しそうになり、友人たちは僕をおさえなければいけないくらいでした。」と話します。その結果被収容者は他者との十分な接触がないと生活が困難になる傾向があり、それでもここに留まりたいのであれば、自分が経験しなければならない困難を理解した上で望まなくてはならないのです。そしてこれ以上耐えられなくなった被収容者は、母国に送り返されることになります。
被収容者はあまり長く部屋の外にいることが許されません。サナは「シャワーの時間に迎えに来てドアを開け、終わるとまた部屋に戻ります。だからいつも部屋の中なんです。」と語ります。被収容者が廊下に留まることは許されず、全員がすぐ自分の部屋に戻るようにするのです。それは、被収容者の生活をできるだけつらいものにすれば、あきらめて日本から出て行くだろうという彼らの心理的なやりかただとサナは考えていました。

前述したように、被収容者は自分のシェイバーを持つことができず、同じものを共有しなければなりません。このような劣悪な共用品に加え、毎日長時間部屋の中にいることを強いられるため多くの被収容者は体調を崩してしまうのですが、これは医療ケアへの永久的な待ち時間というもうひとつの精神的苦痛の始まりにすぎません。被収容者は収容施設の「医師」のところに連れていってもらうために申請書に記入するよう求められますが、その申請は何週間も何カ月も放置されることがよくあるのです。「申請しても1カ月はかかる。もっと苦しむように、わざとそうしているのです。」とサナは説明します。待たされても、被収容者が適切な薬をもらえることはほとんどありません。その上、「もらった薬を長期間服用すると、体内に多くの問題が生じます。精神的苦痛でもなく、実際にわざと苦痛を与えているのです。」と胸の内を明かします。
サナは収容施設のシステムの仕組みに怯えていました。どの被収容者もつらい思いをしていて、自殺を図る人も多かったのです。サナによれば、自殺率が非常に高かったため看守が15分おきに部屋の前を通り、自殺者が出ていないかチェックしていたといいます。看守は何度も事務所から被収容者の部屋まで歩いて様子を見に来ても、腹痛や嘔吐などの病気に苦しむ被収容者を放置していました。
さらに、看守はよく意図的に被収容者の部屋のライトの明度を目が痛くなるほどに上げていました。サナはこう語ります。「たとえ30分部屋にいても、物がよく見えないんです。」サナは看守に明るさをほんの少し下げてくれるよう頼もうとしたのですが、断られ続けました。極端な明るさに長時間さらされたためサナは眼に異常をきたし、現在でも医師がレンズを勧めるほどで、はっきりとものを見ることができません。彼は自分の権利を主張しようと、新聞紙をテープでライトに貼り付けて明るさを抑えようとしたのですが、看守に見つかり、怒らせて懲罰室に入れられてしまいました。
3.2. 懲罰室
収容施設には「過ちを犯した」被収容者が入る部屋があります。それは「保護房」と呼ばれ、個人の保護と安全の確保に関係することが多いのですが、収容施設のものは広く「懲罰室」として知られています。このような懲罰室は5平方メートル以下の非常に狭い部屋であることが多く、窓もありません。看守と口論した被収容者は「過ちを犯した」とみなされ、すぐにこの部屋に5日間入れられて、トイレに行くときも24時間監視されます。サナは、懲罰室に入れられた理由を「体調が悪くて口げんかをしました。施設の外の病院に連れて行ってほしかっただけなんです。」と説明します。彼は自分の権利を主張したまでだったのですが、その行動は挑発行為とみなされて、懲罰室に入れられたのです。
3.3. 失った希望
サナは3人の被収容者が諦めて母国に送り返されるのを見てきました。例えば、彼が知っている中で最初に諦めたのはセネガル人で妻への暴力が原因で収容されていたのですが、頻繁に懲罰室に入れられ、耐えられなくなって去りました。2人目はインド人で2年8カ月近く収容されていたのですが、滞在中に重度の精神障害を発症したため、国に送り返されました。被収容者は看守による苦痛に苦しんでいます。そのような雰囲気の中で、中には看守に腹を立ててドアを叩いたり、喧嘩をし手を出す人もいます。しかし、そのような行動は被収容者を懲罰室に入れる結果となり、彼らの生活をより厳しくするのです。
「刑務所にいるかと思いました。」
収容所での生活は、サナが想像していたものとはあまりにも違っていました。日本で収容収容される前、サナは日本も人権の保障される他の国と同じだと思っていたのです。収容所と刑務所の唯一の違いは重労働や仕事がないことだけで、自由はなく、できることは 「横になっていることだけ」だと話します。

さらに、サナは家族と連絡を取る余裕もありませんでした。まず、日本からアフリカに電話をかけると30分で4,000円もかかるため、サナのような庇護希望者にとってこの代金は手が出ません。サナがさらに恐れていたのは、刑務所のような場所に収容されていることを家族に知られ、心配されることでした。どれほど家族のことが恋しいかにはかかわらず、とても大切に思っている家族を心配させるようなリスクを冒すことはできなかったのです。そのため、サナは孤独で話し相手もいませんでした。「ただ1人で、3ヶ月間誰とも話しませんでした。」と振り返ります。

4. 医療ケアと見つけた安らぎ
4.1. 待ちに待った医療ケア
「彼らは僕が中で死ぬんじゃないかと恐れていました。そして、その責任を問われると。」
懲罰室に入れられた後、サナは病気の症状が強く出ており、「食べようとしても、食べたら吐いてしまうんです。」と話します。その時すでに、食事を摂るだけでも大変な状態だったのです。とはいえ、患者が必要とする食料を手に入れることはできず、冷や飯と野菜にソースをかけたものしか食べられません。収容所では被収容者が看守に頼んでラーメンやスナック菓子、パンなどをコンビニで買ってきてもらうことができるのですが、懲罰室に入れられると「水以外は買えません。水は買えるけど、食べ物はだめです。」とサナは説明します。被収容者に残された唯一の選択肢は、看守が用意したものを食べることなのです。「無理矢理でも食べるよう言われたこともありました」と話すサナは、冷たい食べ物を食べると腹痛を起こして後で嘔吐するようになり、病状は非常に悪化し、何も食べられなくなってしまったのです。2週間のうちに体重は15キロ以上減ってしまったと言います。看守たちはサナがハンガーストライキをしていると思い、もし彼が収容所で死んだら責任を取らされると恐れていたのです。ようやく病院に運ばれ、適切な健康診断を受けたあとで医師はサナに必要と思われる薬を提案しましたが、それが何の薬で、どのように機能するのかは言われませんでした。被収容者は、自分が服用する薬や受ける治療について知らされていません。何の質問もせず、ただ看守の言うことを聞くことが期待されているのです。
処方された薬の効き目はあまりなく、サナは病院で再検査を求めましたが、またしても却下されました。唯一の治療は同じ薬で量を増やすことだったため治療には非常に時間がかかり、病気から回復するのに半年以上かかってしまいました。医師はまた、サナが収容所から出られるなら、もう一度精密検査を受けるよう勧めました。これは、一時的に釈放された後にサナが直面することになる、別の問題につながります。日本では健康保険に加入していないため、そのような検査は受けられないのです。
4.2. イスラム教徒のコミュニティ
日本の入管法では、国外退去に該当する外国人はすべて収容される「全件収容主義」を取っています。つまり、庇護希望者と日本人以外の犯罪者が同じ施設に一緒に収容されているのです。また、このように被収容者が混在していると、無神論者だけでなく、異なる宗教を信じる人もいます。そのため、イスラム教徒であるサナは祈りを捧げることを批判されることがあったり、邪魔だから祈ることをやめるようにと主張する人もいました。サナは自分なりの考え方を持っている冷静な人で、他の被収容者の批判を気にせず「僕はただ平常心を保って、いつも彼らと和解しようと努めました。」と話します。サナのもう一つの素晴らしい資質は、他人に迷惑をかけてはいけないと教えられていることです。そのため彼はいつも静かに祈りを捧げ、誰の眠りも妨げないようにしたそうです。とても寛容で、被収容者が 「神がいるのなら、なぜあなたの神はあなたを救ってくれなかったのか?」など言ってきても、反論することはありません。その代わりに自分の宗教がいかに重要かを理解してもらおうと懸命に努力したので、彼らは次第にサナを理解し、尊敬するようになったと言います。また、穏やかな性格のおかげで施設内での異なる宗教グループ間の争いに巻き込まれることもなかったため、幾つかの暴力事件を避けることができたのです。
当初、イスラム教徒の被収容者はほかに男性が一人いるだけだったので、サナはある意味孤独でした。「僕が収容される前は、イスラム教徒が少なかったんです。ブロックに僕たち2人だけでした。」と振り返ります。しかし、もう一人のイスラム教徒の被収容者はその後、他の部屋の人との間の暴力のために別のブロックに移されました。その結果、サナには誰もいなくなり、収容所では一人ぼっちになってしまったのです。しかし、新しいメンバー、特にイスラム教徒の被収容者が入ってくると、事態は好転しました。「新しく入ってきた人がイスラム教徒だと、向こうも話したがり親しくなりました。」と話します。イスラム教徒の被収容者が増えるにつれ、彼らとの間に自然と会話が生まれました。
4.3. 助けと慰め
サナは新しいイスラム教徒の被収容者たちに心を開き、話しかけるようになりました。彼らは次第にお互いに馴染んできて、会話は禁じられており、破ると他のブロックに移されてしまいますが、一緒に食事などもしたそうです。サナにとって状況は良くなっていましたが、自分を最も暗い状況から救ってくれたのは、このプロジェクトのリーダーであるデビッド・スレイター教授だったと言います。
「自殺まで考えていました。」
サナはデビッドと出会う前、完全に希望を失っていました。「どうしたらいいか考えていたところでした。食べないと決めたけど、何をしたらいいのかわからない。誰とも話したくない。ただベッドに横になって考えているだけでした。」と話し、自殺を考えるほどひどい状況だったと明かしてくれました。
そんなサナの葛藤に気づいて、手助けを申し出たのがデビッドだったと言います。他の被収容者と違ってサナは電話ボックスを使ったことがないことなど、些細なことにも気づいたデビッドはまず自分の話をして、それからサナの話を聞くことで、優しく助けたのです。最初はまったく話をしなかったサナでしたが、あきらめずに常に話しかけてくれたと話します。そういった穏やかなやり取りによってサナは徐々に心を開き、他の被収容者ともコミュニケーションをとる自信がついたのです。また、サナにカトリックグループなどのボランティアを紹介したのも彼でした。
デビッドの助けは、サナの心に明かりを灯しました。いつも希望に満ち、人を助けるのが大好きだったサナにまた戻るように背中を押したのです。「それで僕もみんなと話すようになったんです。特に新しく入ってきた人たちと。」と話します。デビッドが自分を助けてくれたように、サナは収容されたばかりの人々の施設内での生活の手助けを始めました。彼らが他の人たちに溶け込んで友達を作れるように手を貸したのです。
5. 自己啓発
5.1. サナの中の希望の変化
サナは収容所での経験がひどいものだったと語りました。劣悪な待遇と身体的・精神的な苦難のため、自殺や命の危険が伴う帰国も考えたのです。いつ殺されるか分からなくても、日本の収容所にいるよりはその方がましだとも考えるほどでした。収容所での生活はそれほど過酷だったのです。サナは希望を持って日本に来たのですが、その希望は命の危険を冒してでも帰りたいほど薄れてしまいました。
家族に心配をかけたくないというサナの優しい心に加えて、デビッドはサナが強くなるために多くの手助けをしてくれました。サナは彼がしてくれたことに感謝していると言います。「彼は私を元気にしてくれたし、人と交わるようにしてくれました。毎日話すことができたし、一緒にゲームもした。ここにいる勇気をくれたから、僕は残ったんです。」とサナは話してくれました。最初の保証人に裏切られたことでサナは大きな絶望に襲われ、人間不信に陥ってしまいましたが、それでも信頼できる人はいるのだと再び信じるようになったのです。