1. 収容所からの一時解放
1.1. 仮放免の課題と期待
2022年5月28日、サナはついに収容所から解放されたのですが、ここまで来るのに仮放免を申請しなければなりませんでした。仮放免は収容所の外で生活し、一時的に日本に滞在することを認められる身分のことですが、日本特有のもので、保釈に例えられるかもしれません。仮放免の許可・不許可の基準は定められていませんが、入管は「健康上の理由」がある被収容者に一時的な解放が必要と認められた場合に与えられるとしています。しかし、基準や規範は定められていないため、仮放免が認められるかどうかを被収容者が知ることは難しいのです。
まず、サナはスポンサーや弁護士を見つけるなど、多くの困難を乗り越えなければならなりませんでした。難民であると同時に外国人でもあるため、慣れない国で信頼できる人を見つけるのは大変なのです。彼の信頼は以前に打ち砕かれていたことがあったのですが、希望を持ち続け、収容所から出る決意を思い起こして兄弟や親戚、日本に住む知人に電話をかけ、自分の状況を説明しました。施設から電話をかけるのは至難の業で、電話をかけさせてほしいと頼むには、看守を説得しなければならなかったのです。「彼ら(看守)は電話はかけられないと言うので、大事なことだからと説得しようとしました。」と説明します。サナはなんとか看守を説得したのですが、楽にはいきませんでした。「看守は私を部屋に連れていかなければなりません。そして、一人が後ろに立ってチェックしてから紙を一枚取り、電話をかけたい人の名前を書いて渡すと、それを持ち帰るんで。」と説明を続けます。看守は「電話を預かり」、誰にどれだけの時間、電話をかけることを許可するかを管理するのです。「一人が後ろに立って、チェックするんです。」とサナは強調します。
幸いなことに、サナは世界中にいる家族に連絡を取ることができました。その家族も日本にいる親戚を含む知り合いに電話をかけ、サナも連絡を取りました。「彼女に電話して、すべてを説明しました。僕が収容されていることさえ知らなかったので、とてもショックを受けていました。」と話します。彼女はサナを助けたいと思い、日本の永住権を持っている兄に保証人としてサナをサポートできないかと頼んだところ、快諾してくれました。この男性は、サナが解放されている間責任を持って面倒を見るからと懇願し、サナを助けることができたのです。仮放免を受けるために保証人は必須で、弁護士もいることが望ましいのですが、それもまた難しいのが事実です。

そして2ヵ月後、ようやく仮放免の申請が入管に許可されました。これもまた簡単なことではありません。仮放免申請は却下される頻度が高くなり、被収容者の80%が少なくとも3回は却下されています。被収容者は保証金、弁護士、そしてさらなる支払いが必要なため、サナは20万円の保証金を支払わなければならなかったのですが、保証人と弁護士がいたのは幸運でした。解放が認められたのは彼の健康上の問題で、特に新型コロナウィルス感染症の時によくあった理由なのですが、被収容者が死亡する可能性があっても責任を負わないようにするための収容所側の戦略だと考えられていました。この戦略は「不誠実」だったのですが、「残酷なほど効果的」でもありました。被収容者は収容所を出ることを喜んで受け入れる一方で、実際には仮放免の制限の中で必死に生き続けていたからです。
1.2. 仮放免の現実
安心と興奮を感じていたサナは、再び自由を感じられるようになると期待していました。「安心感を得て、自由に動けることにがとても嬉しかったです。」と振り返ります。しかし、現実は違いました。「思ったのと違いました。病院に行くにも、市役所に行くにも、自分のアパートの手続きにも仮放免の資格は使えません。認められないと言われたんです。」と失望と苛立ちを覚えたサナは、仮放免がいかに多くの制限を伴うかを体験しました。働くことも、銀行口座を開くことも、健康保険を利用することも、国内で自由に移動することさえもできないのです。「銀行口座を開こうとします。他の国から送金してもらえるように。でも『仮放免はダメです』と言われました。だから、何もできないのと同じです。」とサナは説明します。さらにいつ県外に行けるかどうかも入管が決めるのですが、それがたとえ1日でも、入管に行って許可を申請しなければなりません。「何かしらの書類を提出し、何をしにそこへ行くのか理由を伝えなければならないのです。そして、会う人に確認の電話をしなければならなくて。あまりにストレスが溜まります。」と、彼は苛立ちを打ち明けます。これは少なくとも前日までに済ませる必要があり、数時間かかることもあるため、ストレスの要因となるのです。

「特に、やりたいことがあって他県に行かなければならないときは、とても憂鬱になります。」
さらに悪いことに、この許可は一時的なものであるため、1、2ヶ月か3ヶ月ごとに品川の入管に戻って仮放免を延長してもらわなければなりません。入管は有効な日数を決め、いつでも更新を却下できる権限を持つので、このような状態で生活している人には、また収容されたり強制送還されたりする可能性が常にあるのです。解放後に再び収容する理由は恣意的で不明確なことが多く、例えばカメルーン生まれの40歳の男性、ルイ・クリスチャン・ムバラさんは体重が増えたからという理由で再収容され、51歳のイラン人男性、マジッドさんは極めて短い仮放免後に三度も再収容されています。庇護希望者は滞在許可(特定活動ビザや、日本では庇護希望者の5%ほどにしか認められていない難民認定など)を与えられるか、強制送還されるか、収容されるかのいずれかなのです。
サナもまた、仮放免の期間や戻る頻度が不確定であることに影響を受けています。2022年12月、サナの滞在許可証は3ヶ月から1ヶ月に変更されたのですが、その理由は説明されなかったといい、「一切説明もなく、ただ変更されました。理由も教えてくれません。ただそう決めるんです。」とサナは肩を落とします。サナは入管で何時間も切望して待ちながら、何が起こるかわからないと恐れているのです。「たまにその場で更新しないと言われ、帰国するか収容されるかどちらかというケースもあります」と説明を続けるように、サナもまた次はいつ来るように言われるか、すぐに収容所に連れて行かれるかも分かりませんでした。サナはこのことからストレスを感じて、憂鬱になっていました。
収容所を出た後サナの精神状態は良くなりましたが、仮放免に伴うこうした制約の影響を感じています。インタビュー当日も、サナは落ち込んでいました。特に仕事ができないことや、移動の自由が制限されていることが影響しているようです。施設に物理的に収容されることはなくなったのですが、仮放免の制約と県境に縛られていることに変わりはありません。その状況は彼を不機嫌にさせるのですが、収容所に比べればましだといいます。「彼らがしていたことは、まったく助けになっていなかったからです。苦しんでいるのに、胃に効かない薬を飲まされて…。自分で薬を手に入れることができて本当に嬉しかったです。痛みを感じたらいつでも病院に行けるんです。」 と笑顔で続けます。
2. サバイバル
2.1. 働きたくても働けないということ
「ビザを持たない外国人だけがしています。ただ生き残るために。」
仮放免許可を持っている人の多くは生きていくために働きたいと思っていますが、働くことは許されていません。逆説的ではあるのですが、日本は膨大な労働者不足に直面していて、その不足数は2017年の121万人から2030年には644万人になると推定されます。この不足に対処するためには、とりわけ外国人の雇用を促進すべきです。外国人の雇用を増やすことは、他にもグローバル化への対応や社会保障制度の維持などの利点も挙げられます。これらの理由から、新しい労働者を受け入れることは論理的なのです。安倍晋三前首相の政権下では、特定技能ビザの下で外国人労働者を受け入れるという変化もありました。とはいえ、日本政府は依然として多くの移民にビザを発給せず、仮放免の人たちの就労を認めず、多くの外国人が日本に長期滞在して働くことを受け入れていないのです。
その結果、仮放免の庇護希望者のほとんどは、特に多くの日本人が働きたがらない業種で、生きるために不法就労を余儀なくされています。90年代、「不法 」労働者は「3D」(Dirty、Dangerous、Difficult)と呼ばれる、日本人が敬遠するような最下層の賃金で危険できつい仕事をしていましたが、多くの場合、契約も健康保険も適切な安全基準も提供されません。これらの労働者は仕事を得るために必死なためこのような「搾取」問題を口にできないことが多く、支払われるべき賃金を請求することも難しいのです。その上、もし怪我をすれば援助を受けるどころかおそらく解雇になってしまい、健康保険に加入していないため病院に行くにもお金がかかります。さらに、多くの労働者は不法就労であることが誰かに知られることを恐れて、何が何でも病院を避けます。サナの知り合いで仮放免の男性は引っ越し業者として不法就労し、怪我をしました。「ある場所の片付けの手伝いに行ったら、動かさなきゃいけない金属があったみたいなんです。持ち上げてみるととても重く助けを求めたみたいなんですが、結局自分のつま先に落としてしまい、もうかれこれ3週間ろくに働けずにずっと家にいるみたいです。病院にも行きたがらず、薬局に行ったと言っていました。」と話してくれました。活動家でいつも人に親切なサナは、薬や包帯を買いに薬局に行くのを手伝ったそうですが、この男性は病院に行きたがりませんでした。「お金がかかるからです。それに何が起きたのか聞かれるのが怖かったみたいです。仕事で、とは言えないから。」と説明します。
「生活を複雑にし、生きづらくしているだけです。」
収容所での生活は、誰も日本に残りたがらないようにするために非常に困難で厳しいものとなっていますが、仮放免の生活は、働くことを許されない中で生き延びなければならないことによって困難なものとなっています。サナが指摘するように、もしも働くことを許可されて賃金を得ることができれば、庇護希望者は日本に留まりたがるだろうと日本の政府が考えているように思えます。そのため、庇護希望者を追い出すためだけに、彼らの生活を非常に厳しいものにしていると感じたそうです。就職する能力もなく、生活が耐え難いものとなれば国を去るだろうという前提が考えられます。仮放免をめぐる日本の政策は被収容者の生活を制限することを推し進めているのは確かで、サナが言うように「僕たちにとって、とても複雑で生きにくい」生活にしているのです。さらに、一時解放された被収容者の日本での生活を困難にしているもう一つの側面に、健康保険に加入できないことがあります。
2.2. 健康問題があっても健康保険に加入できないということ
「保険に入ればいいのに」とサナは通常の3割負担以上の医療費を負担しなければならない仮放免への不満を口にします。「去年骨生検を受けたんですが、保険があれば30,000円くらいなのに僕は10万円くらい払わされました。そう、10万円。保険もビザもなかったからです。」と話すように、就労できないことによる経済的負担の上に、健康保険への加入もできず、さらに言葉の壁によって病院での経験は極めて困難なものでした。
外国人で難民のサナは、病院での不満や差別を経験します。特に、健康保険も日本の在留カードもなく病院で延々と書類を記入するのは大変な経験の一部です。痛みがあったり早急な治療が必要だったりすると、なおさらストレスがたまります。その上、適切な治療を受けて正しい薬を処方してもらうためには、自分の問題や症状をきちんと伝えることが不可欠です。病院で働く人たちの中に理解しない、あるいは理解できないふりをする人がいることにサナは気づいたと言います。「保険がないと対応が違うんです。本当に大変です。」と話すサナに、日本でのフラストレーション、ストレス、そして 「他者」のような感覚は、さらに積み重なっていくのです。
幸いなことに、サナは収容所を出た後に病院で治療を受け適切な薬を出してもらうことができました。施設内の医療は非常に問題が多かったので、これは切実に必要なことだったのです。他の被収容者たちは、より深刻な投薬が必要なときに解熱鎮痛剤しかもらえなかったと説明しています。2007年以来、日本全国で17人の外国人が収容施設で死亡しているのです。
仕事がなければ、難民は国からのお金で生き延びる他ありませんが、その額は安全で快適に暮らすには決して十分ではありません。サナは経済的援助や通院のために自分の兄弟や難民組織、ボランティアに頼らざるを得ませんが、助けを求め続けることは「ストレス」であり「恥ずかしい」ことで、時には「向こうも疲れってしまうので、ずっと助けてもらうことはできません。だからこっちは苦しみ続けるのです。」と語ります。
「人に助けを求めるのはとても悪い気がします。」
仮放免になった被収容者はみな、親族やNGO、あるいは政府機関など、生き延びるための手助けをしてくれる人たちに頼らなければなりません。サナには単純に疑問があります。彼らの助けがなければ 「どうやって生きていけばいいんでしょうか?」という疑問です。このように、日本で仮放免にされた難民の生活は困難を極めています。働くことも健康保険に加入することもできず、毎日を生き延びるだけでも大変なことなのです。
3. 日本でのアイデンティティ
3.1. 根拠なしの差別
「犯罪者だと、犯罪を犯したと思われて、刑務所に送られてしまうんです。」
仮放免は難民だけでなく犯罪を犯したことで在留資格を失い収容されている人にも与えられるのですが、書類上ではどちらのグループも同じように見えます。そのため、サナは政府関係者や市役所、その他の組織から犯罪者として見られることもあり、このことが彼の生活をより困難なものにしているのです。「彼らに話しかけてそのことに触れても、聞こうともしてもらえません。」と話します。このように、まずサナは仮放免の書類によって犯罪者とみなされ、差別されてしまうのです。次に、彼がこのことを説明しようとしても、職員は聞く耳を持とうとしません。その理由は、難民はよく不信感を抱かれるからです。日本社会にとどまらず、難民はしばしば「偽装難民」とみなされます。不法入国と推定される移民が、難民ではないのに難民認定を申請するのです。サナを含めて庇護希望者が日本で難民認定を申請する際、「難民認定という範疇にないという話をよく耳にします。そして、どのような申し立てが難民認定資格に該当するのかと尋ねても、彼らは何も言わないのです。」と説明します。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は難民を「人種、宗教、国籍、政治的意見または特定の社会集団に属するという理由で、自国にいると迫害を受けるおそれがあるために他国に逃れ、国際的保護を必要とする人々」と定義しています。「UNHCRに問い合わせても…命の危険があり、迫害されていると感じるのに、証拠を提出することすら気にしないのです。彼らは怖がりません。」とサナは話します。
「すごくがっかりです。時には真実を話し、本当のことを伝えているのに、彼らはそれを尊重しなかったり、言っていることを信じてくれなかったりするんです。」
つまり日本で難民になるということには、経済的なチャンスを求めているだけの偽装難民、あるいは信用できない犯罪者とみなされる可能性があるのです。日本国民は外国人、特に永住権を求める外国人に対して、時に複雑な感情を抱くことがあると報告されています。例えば、移民の流入による社会秩序の悪化や犯罪率の増加を懸念する日本人もいます。
さらに、サナは日本の警察による人種差別的な職務質問を経験したことがあるため、日常生活の中でいつ、どこで出歩くかについて慎重になっています。収容所に行く前、彼は警察からの扱いにショックを受けました。今でも時々警察に呼び止められることがあり、非常に不安で恥ずかしく思います。精神的苦痛を受けた場所で再び収容される可能性は常につきまとうのです。彼の肌の色は警察に止められる頻度が高いことを意味していますが、日本に住む外国人、特に黒人は街頭での警察による暴行や人種差別に気づいています。
「黒人が昼間に歩いているだけで、疑う理由になってしまうんです。」
サナが警察に呼び止められたのは昨年の冬、ガーナ大使館に行ったときのことでした。駅周辺の人ごみの中で彼だけ声をかけられたのです。世界的な問題であるレイシャルプロファイリングは、日本でも制度的問題だと指摘されています。レイシャルプロファイリングとは、警察官が肌の色の濃さによって、つまり人種に基づき犯罪に関与していると判断することで、過去5年間に日本に滞在した外国人の63%に起こったと報告されています。仮放免中の外国人は犯罪者や偽装難民とみなされるかもしれませんが、肌の色が黒い外国人は特に人種差別的に扱われることが多いのです。
サナは日本でもムスリムとしての差別を経験しています。「宗教のことを知らないためにイスラム教徒のようにしか聞こえず、世界がイスラム教をどのように描いているかを考えてしまう人もいます。」と彼は説明します。特に2001年9月11日の同時多発テロ事件以来、世界的にイスラム教はテロリズムと結びつけられてきました。イスラム教徒に見える 「不法」移民は、世界中でテロリストとみなされるようになったのです。日本ではイスラム教徒は宗教的に少数派であり、受け入れてもらえないことがよくあります。テロリズムに対する考え方は差別的で、日本のイスラム教徒が過激化していたり、日本社会に脅威をもたらすという兆候もありません。とはいえ、日本ではイスラム教徒が人種差別の対象にもなっているように、こうした考え方は根強く残っています。このように黒人でムスリムで難民であるというサナのアイデンティティは、関係者が必ずしも聞く耳を持たず、警察に止められることもあり、宗教だけを理由に彼を避ける人もいる日本での経験に影響を及ぼしているのです。
3.2. 落ち着きをくれる信仰
宗教はサナの人生において大きな役割を果たしており、収容所を出たあとの日本での生活においてもそれは続いています。当初彼は千葉に住んでいたのですが、そこでは祈ることも、他のイスラム教徒を見つけることも、モスクに出入りすることも大変でした。「一人で祈るしかないから、一体感がなくて。いつも一人で寂しい思いをしていました。」と振り返ります。今は埼玉で、「たくさんのイスラム教徒が周りにいて、クリスチャンも周りにいるから、自分たちと一緒になって交流できる。それは僕にとってとても良いことです。」と言います。他の人たちと一緒に自分の宗教の教えを実践することは、サナにとって重要なことです。それは彼に一体感を与え、孤独感と戦うことになるのです。日本のモスクはコミュニティ形成に貢献し、サナのようなイスラム教徒が他者とのつながりを感じられるようサポートしています。

神に祈ることでサナは自分の問題に対処できます。「今日のように僕はとても落ち込んでいて、心配で、どうしたらいいのかわからない。でも、30分くらい座ってただ神様のことを考えて考えていると気持ちが落ち着いて、何があっても頑張ろうって思えるんです。希望と勇気を持てばいいんだ。そうするときっと大丈夫、人生の終わりじゃないって思えるんです。」と話してくれました。
4. 「やわらかな心」
母国を逃れて見知らぬ国にたどり着き、収容所に収容され、仮放免とともに生き延びてきたサナは、今もなお活動を続けています。サナの子供時代は両親を助けることを中心として形作られていたように、彼の人生は他人を助けることで満たされてきました。父親は「親切にしなさい、そして誰かの役に立ちなさい。」といつも言っていたので、サナはその教えを実践しています。彼はこう語ります。「小さい頃でも、いつも両親の面倒を見てきました。いつも誰かの役に立ちたいんです。だから誰かを助けるために家を出て、2日か3日そこにいて、それから家に戻るんです。」
「僕は『やわらかな心』を持っていて、誰かが苦しんでいるのを見ると、幸せな気持ちになれません。」
例えば、サナは仲間の被収容者に弁護士をつける手助けをしています。「彼らは生活がとても困難だと感じていたので僕がいくつかの団体や弁護士に連絡を取って、助けてくれる弁護士を見つけることができました。」と彼は説明します。サナはまた、出所や住居探しの手助けで被収容者を訪問するためにフランス語と英語を話せるボランティアも何人か集めました。またある時、サナの知り合いが重い病気にかかってすぐに病院に行かなければならなくなったのですが、彼は友人のナヌさんと一緒に、この男性が必要な手術を受けられるように2つの団体からお金を集める手助けをしました。
収容所を出たことでサナは有意義な時間を過ごし、故郷に戻ったかのように自分自身を取り戻すことができました。「僕はただ、人々に力を与えて困っている人々を助けることが好きなんです。」と語ります。サナは他人を助けることで、故郷を脱出したトラウマ、収容所での心理的困難、そして仮放免の苦難に対処しているのです。

5. サナの未来と明日への希望
「希望はあるし、まだまだ祝福が待っています。」
サナはいつか自分の家族を持ち、父親が自分にとってそうであったように、子供たちの手本になりたいと願っています。「父がしてくれたことを続けたいんです。父について言わせてもらうと、地域社会で著名な人でした。僕もそうありたいんです。」と嬉しそうに話します。父親と叔母のビジネスも彼にインスピレーションを与えたようで、「僕も父のようなビジネスマンになりたかった。だから、ここでビジネスを立ち上げたいんです。日本から買ってアフリカに出荷することもできる。叔母のビジネスのように…彼女は韓国やシンガポールなどともコンタクトを持っているんです。」と続きます。
とはいえ、サナはまず日本に長く滞在して働くためのビザを取得する必要があります。「日本で安定した生活を送れるようになったらビザが下りれば…それが夢なんです。」と希望を口にします。日本は難民の受け入れ率が低いため難しいことですが、「時には不可能だと思うことも、最後には可能になるんです。」と話すように、サナは希望を持ち続けています。
サナは日本で家族を築くことをいつも夢見ていました。そして今、日本に婚約者がいます。「ここで家族を持つのが夢でした、うん、ここに残ります。」と嬉しそうに話します。そして、いつか日本にいる自分の家族と一緒に、家族に会いに故郷を訪れたいと言います。



サナの未来は希望に満ちています。ガーナとブルキナファソの平和への希望、家族への希望、貿易ビジネスへの希望、「何事も永続的ではない」という希望、いつかガーナとブルキナファソに戻ってくるという希望、そして日本が変わることへの希望です。
「今日が辛くても、明日は楽になるかもしれません。」