守り人サナ

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 「僕は人を助けます。助けることに感謝の気持ちを感じるんです。」

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「人助けが好きなんです」

家庭的で責任感の強いサナは、結束力の強い大家族の中で育ちました。幼少期から母親の家事や貿易業の手伝いに明け暮れ、母親が病気になると看病をするようになったり、面倒見の良さは際立っていました。青年になって両親の面倒を見る責任を負い、弟の成功のために自分の夢を犠牲にするようになってもなお、このような性格を持ち続けました。

しかし、宗教・政治的対立の影に覆われた2つの国の狭間で育ったサナは、善を信じる人として社会運動に参加し、その活動がやがて彼と彼の家族の迫害のきっかけになってしまったのです。自らの苦難にもかかわらず他人を助けたいという情熱から、困難で致命的な状況に追いやられてしまったサナ。それでも彼は自分自身に忠実であり続け、思いやりのある態度を持ちながら日本での難民生活の苦難に耐え続けています。

1. サナの人生初期における影響

1.1. 母親の生活におけるさまざまな役割

「母がどこにいようと一緒にいたいんです。」

サナと母

サナと母親はいつも特別な絆で結ばれていました。サナが生まれたブルキナファソ最大の民族であるモシ族では、女性は男性に従属し、たくさんの子供を産み、育児にほとんどの時間を費やすことが当たり前でしたが、サナの母親は多くの子供を持つことに苦労していたと言います。母親には3人の子供がいましたが、そのうちの1人がマラリアと頸椎症性脊髄症(CSM)で他界したのです。ユニセフによると、アフリカでは2012年時点で1年に45万人もの5歳未満の子供がマラリアで死亡しています。サナの母親はその子供を亡くしたとき、もう二度と出産できないのではないかと思うほど打ちのめされました。他の女性からの子供が2人しかいないことへの言動にも傷ついたそうです。

モシ族では多くの子供を産むことが功績とみなされるのため、たくさん産めば産むほど女性は誇りを持つことができます。加えて、子供を多く設けることは、一家の大黒柱である夫に万一のことがあった場合に経済的な安定が得られると考えられてもいます。というのも、相続する子供の数が多いと遺族年金も増えるそうです。そういった精神的苦痛や社会的なプレッシャーを感じ、サナの母親は子供を増やそうとしても長い間できませんでした。そのため10年後にようやくサナを出産したとき、彼女はサナがすべての問題を解決してくれたように感じたのです。

サナは子供時代を通じて、母親の生活の中でさまざまな役割を引き受けました。サナの母親には女の子はおらず、兄たちも家にいなかったため、サナは普通は女の子に求められる役割を引き受け、母親と一緒に家にいたと言います。ブルキナファソでは社会的・文化的な要因から男女不平等がいまだに蔓延しており、モシ族は父系集団と見なされていて、女の子は学校に行くよりも家事をするべきだという考えが根付いています。ほとんどの家庭が男の子にお金をかけていて、女の子には夫の家に嫁がせるために家事をさせるので、女の子は教育を受ける意欲を削がれてしまうのです。

しかしサナは教育を受けただけでなく、兄たちと違い家事も学びました。幼い頃から彼は母親が料理をするのを手伝い、食料品を買い、調理用の炭や薪を用意したりしたそうです。3人目の子を失った母親の心の空白を埋めるだけでなく、サナは息子と娘の役割も同時に果たしたのです。

サナは、母の人生におけるこうした明確な役割を、母を愛するがゆえに喜びと結びつけていました。サナの家族にはたくさんの人がいましたが、彼はほとんどの時間を母親と過ごすことを選び、10歳の頃に母親の心臓の持病が重くなると、看病もするようになりました。いつも母親と一緒にいてどこへ行くにもついていき、母親がいないと泣いていたと幼少期の自分をサナは振り返ります。母親との距離の近さや母親や叔母たちと過ごす時間の長さから、女の子と呼ばれたこともあったそうですが、サナはそんなことは気にせず、「母の最後の子供として、母を一人にはしたくなかった」と娘の役割と最後の息子の役割を受け入れたと話します。

1.2. 性役割を打ち破り自立した母

「いつも世話を焼いてくれました」

サナの母親は、さまざまな文化圏で一般的に女性に与えられている主婦の役割にとどまりませんでした。勤勉で自立した女性でとして子供たちのことを一番に考え、夫が事業を成功させていたにもかかわらず、自分ひとりで子供たちを養えるように貿易商として働いていたそうです。サナが尊敬し高く評価しているのは母親のこうした部分であり、だからこそ、家族を助けたいという動機がサナの人生における決断に影響を与えてきたのです。

サナの父には多くの妻と合計16人の子供がいたので、養う家族がたくさんいました。モシ族では、男性が経済的に養うことのできる限り、一夫多妻制が認められています。複数の妻を持つことは威信を示し、家事労働力を増やすことになるため、男性にとってメリットがあると考えられているのです。サナの父親は複数の妻を持つ経済的余裕があり、全ての妻を平等に扱っていました。しかし、サナの母親が最初の妻であったとしても、より多くの子供を産んだ他の妻たちより位は低かったと言います。サナの母親は家族構成における自分の立場が子供たちの将来に影響することは避けたいと決意し、夫に頼らずに子供たちを養うために貿易業で働くという選択をしたのです。

サナの母親は、さまざまな国から商品を売り買いするためによく旅をしていたと言います。母親についていくのが好きだったサナは、自然と出張に同行するようになりました。男女不平等が蔓延している場所で女性がビジネスをするのは容易ではなかったため、母親も本当にサナを必要としていたと話します。

「母を支えてくれる人は誰もいなかったし、よく支援をお願いしていた人たちでさえ、母を利用しようとしていました。」

サナの主な役割は、母親が誰にも利用されないようにすることでした。彼は交渉の際、母親を騙そうとしたり盗もうとしたりする商人を見張り、品物の量をチェックして記録するのを手伝いました。こうして、サナは母親から家事を学んだだけでなく、商売や貿易の基本も学んだのです。母親との強い絆から多くの必要不可欠なスキルを取得しましたが、最も重要だったのは、母親が伝統的な男女の役割を破り経済的に自立するために家の外で働く姿を見て、男女平等のあるべき姿を考えながら育ったことでした。

1.3. 兄の成功のために犠牲にした夢

サナには母方の2人の兄弟に加え、父方にも数人の兄弟がいましたが、そのような大家族で育つのは全て楽なことではありませんでした。父親の妻たちは競争意識が強く、お互いに問題を起こすこともあり、お気に入りの妻になり子供を通じてより多くの利益を得ようと競い合って、子供を持てない妻を馬鹿にする人さえいたのです。サナの母親もその1人で、3人目の子供が亡くなった後子供を産めない妻だと批判され排除されたのです。けれど、子供たちはそういった母親同士の問題を決して兄弟関係には影響させなかったと言います。

サナと下の弟
「自分も大家族を持ちたいんです」

家族同士が喧嘩をすることは珍しくありませんが、サナは兄弟全員が一緒に遊び、お互いを愛し合う幸せな家庭で育ちました。サナは兄弟姉妹のことを大切に語っていて、いつか自分のような大家族を持ちたいと強く願っているそうです。兄弟姉妹と遊んだ楽しい思い出から、サナは将来、自分の子供たちが友達として成長できるような大家族を持ちたいと思うようになりました。サナと兄弟がお互いに抱いていた愛はどんな問題にも勝り、その愛がゆえ、兄のために自分の夢をも犠牲にしたのです。

サナの兄の1人は、ガーナのバレー・ビュー大学で会計学を学んだ後、ロンドンで修士号を取得する奨学金を得たのですが、それだけで勉強を続けることはできませんでした。当時父親のビジネスは倒産寸前で、子供の数が多すぎたため全員を一流の大学に行かせる余裕はなかったのです。そこで兄は、事業がうまくいっていた母親にロンドンに留学するための資金援助を求めました。母親は子供たちを養い、良い学校に行かせるために最善を尽くしていましたが、責任を持って全ての子供たちのために貯めていたお金を1人の子供に費やそうとはしませんでした。

母親はサナの兄に、ロンドンで勉強を継続するにはお金がかかりすぎるから帰国してブルキナファソで仕事を探すように勧めました。思いやりがあって思慮深いサナは自分のことよりも兄のことを優先し、サナの教育費のためにもともと貯めていたお金を送るよう母親を説得したのです。サナの母親は「あなたはどうするの」と尋ねたのですが、サナは「大丈夫。なんとかなるから。」と母親を安心させたそうです。兄がロンドンで勉強を続けられるように、名門大学に行かずに地元の大学に行くことにしたサナが、いかに無私無欲で家族の幸せを優先する人かが分かります。

1.4. 寛大な父

「大きくなったら父のようになりたいとよく思っていました」
サナと父

「彼は寛大な人だから、本当に多くを学びました。」

サナは、父親とはずっと親しい関係にあったわけではありませんでした。父親には複数の妻と子供がいたため、全員に気を配るのは難しかったのです。加えて、サナの父親はビジネスマンとして成功し、いつもアフリカ中をあちこち旅して商品を売買していたため、子供たち全員と充実した時間を過ごすことも簡単ではありませんでした。サナの成長過程で父親と過ごす時間は少なかったのですが、今日まで心に持ち続けている価値観は、すべて父親の教えによるものだと話します。サナは父親のような優しく誠実な男性になりたいと願っており、父親がサナの性格に与えた影響は、彼がどれほど優しく思いやりのある人間になったかを見れば明らかです。

「父には常に誠実でいて母に敬意を払うことを教わりました」
「父にも私にも忘れられない思い出です」

成長するにつれサナは母親と過ごす時間が長くなり、兄たちは父親と過ごす時間が長くなりましたが、父親がガーナでのビジネスで苦労し始め、妨害してきた人々との交渉によるストレスが健康に影響を及ぼしたときに側で支えたのはサナだったと言います。サナが19歳のとき、父親はストレスから脳卒中になり、すぐに病院に運ばれました。それ以来、歩けなくなった父に常に付き添い、日課を手伝うなど面倒を見たのはサナだけでした。朝、昼、晩とマッサージをして、必要な時には一緒に病院にも行きました。父の世話に専念するため仕事までやめたサナを見て、どれだけサナが自分のことを気遣ってくれているか気がついたと言います。サナの幼少期を通して忙しかった父親ですが、このことで2人は絆を築くことができたのです。

1.5. 父と叔父の宗教的な違い

「父は部族や宗教を超え多くの人と関わっていました」

サナはいつも、働き者でありながら自由奔放な父親を尊敬していました。サナの叔父たちのようなブルキナファソの一部の人々とは異なり、父親は男女平等を心から信じていて、妻たちが家の外で働き、好きなことをするよう勧めていました。イスラム教徒で、女性の自由を制限するような宗教的伝統を厳格に守っていた実家とは違う考え方を持っていたのです。イスラム教では、女性がすることはすべて男性に関係しているとサナは言います。夫と妻の権利はイスラム教では明確に定められていて、女性が外出するには夫の許可が必要な上、商業も固く禁じられています。サナはこの宗教的伝統に否定的で、「いつも女性に家にいて、家事や出産をさせたがるんです。女性には働く権利がないみたいに。」と話します。

サナの父親には3人の兄弟がいたのですが、彼らはコーランの教えを厳格に守っており、父親と同じ考え方は持っていませんでした。彼らは子供たちに他の宗教の人々と交流させないなど、非常に厳格に宗教を実践していたのです。対照的に、父親は子供たちにキリスト教徒と友達になることをいつも勧めており、自分の兄弟のことを「厳しすぎる」「もっと理性的になるべきだ 」とよく言っていたそうです。父親と叔父たちのこの対比はサナの世界の見方に影響を与え、彼自身の信念、特に宗教の違いへの寛容性を育みました。「彼ら(キリスト教徒)がイスラム教徒でないからといって、自分たちの宗教を実践していないということにはならない。私たちは皆、神を信じ、同じ神を崇拝している。裁くのは神だけなんだ」と父親が教えてくれたのです。

サナはコーランを崇拝していましたが、宗教に関係なくすべての人を尊重すべきであり、女性がもっと自立し、働く権利を持つべきだという点でも父親と意見が一致していました。父親の柔軟で寛容な態度は、新しい場所を探検し、アフリカ大陸を旅することを楽しんでいたからだとサナは説明します。そのため彼は自分とは異なるバックグラウンドを持つ人々と交流することができて、その結果、非常に偏見のなく固定観念にとらわれない人物となったのです。

サナは叔父たちとは異なる考えを持っていましたが、それでも尊敬の念を持ち、貿易業で叔父の一人と働いていました。しかし、宗教の違いが労働倫理の違いも生んだため、叔父と一緒に仕事をするのは大変だったとサナは語ります。例えば、叔父は正確な時間に祈ることを重要視していましたが、サナはビジネスに集中し、必要なときに少しずつ時間をずらして祈るべきだと考えていました。叔父はまた、サナがキリスト教徒と親しくすると怒り、キリスト教の行事に参加すると家から締め出したりもしたのです。

イスラム教の異なる2つの側面に触れることで、サナは忍耐強く理解のある人間になり、父親のように寛容になることを選びました。いつか父親のようになり、自分の子供たちの手本になりたいと語っています。

「父がやってきたことをただ続けたいと思っています。父は言ってみれば、地域の名士みたいな人でした。僕もそうありたいです。」

2. ガーナとブルキナファソの間で育って

2.1. 母国ブルキナファソ

「故郷はブルキナファソです。」

ブルキナファソの位置 (日本国際協力システム)

ブルキナファソは西アフリカに位置し、マリ、ニジェール、ベナン、コートジボワール、ガーナ、トーゴと境界を接する国です。多くの国に囲まれていて、家畜のほか綿花、シアナッツ、ゴマ、穀物、トウモロコシ、落花生、米などの天然資源に恵まれた農業国であるため、サナの両親が貿易ビジネスを成功させ、近隣諸国に展開するのに便利な場所でした。

サナはブルキナファソとの国境にあるガーナのバウクで生まれ育ち、学生時代を過ごしました。ガーナは子供時代のほとんどを過ごした国ですが、両親ともにブルキナファソ出身であり、ガーナでは国籍に重きが置かれていたように感じたため、サナはブルキナファソを母国と考えてると言います。ガーナはアフリカの中でも厳格な移民法を持つ国のひとつであり、国家統制経済を強化する手段として、国籍を持たない者にはビジネスを行う権利を与えていません。加えて、ガーナ国籍は両親か祖父母のどちらかがガーナ生まれでなければ認められないのです。したがって、サナはガーナで生まれたとはいえ、両親がブルキナファソ出身であるため、ガーナ国籍は持っていないのです。これはサナにとって、自分が排除されたように感じ、国民としてのアイデンティティの壁に直面した初めての経験でした。

「同じ部族の出身じゃないからと大変でした」

2.2. ガーナでの学生時代

「学校に戻れたら良いのにと思います」

サナは小中学校時代をガーナのバウクで過ごし、そこで異なるバックグラウンドを持つ子供たちと交流して、自分の宗教以外の宗教についても学びました。サナの家族はイスラム教徒ですが、父親はサナと兄弟が友人の行事に参加することを勧め、招待されればカトリック教会にも行きました。学校で早くから他の文化やバックグラウンドに触れたことでサナは視野が広くなり、他者を深く尊重するようになったのは確かです。

異なる宗教を持つ多くの子供たちと交流してサッカーやランニングに興じるなど、サナは学校を楽しみ、その頃の良い思い出がたくさんあると話します。しかし、彼の部族で宗教的、政治的な対立が起き始めると、自分と家族を守るために数ヶ月の間で何度も学校を離れるしかありませんでした。地域社会のメンバー同士が土地をめぐって争い始めて、イデオロギーの違いから敵の領土内にある学校へ行く途中で襲われたり誘拐されたりすることが多くなり、子供たちが学校へ行くことさえ危険になったのです。こうして、サナは合計3回の転校を余儀なくされ、18歳で中学校を終えた後、ガーナ北部の高校を卒業し、タマレスにある開発研究大学に進学しました。大学時代は学生主導の社会活動家グループの一員となり、地域の人々への教育を始めました。このことがサナの女性の権利を侵害する伝統との闘いの始まりでしたが、のちにテロ集団の標的となってしまう理由でもあったのです。