アフリカから日本へ

英語版はこちら ENGLISH VERSION

注:このページの全ての動画において日本語字幕をご利用いただけます。
字幕の表示方法はこちら

迫害と恐怖の中で、サナは病気の両親を支えるために学業とキャリアを犠牲にせざるを得ませんでした。まだ20代半ばの彼はガーナ国内での社会変革を求める運動の真最中で、大学では開発学を専攻していました。暴力的な反発にもかかわらず、サナは血気盛んで活動や教育を通じて前進していました。彼は両親と非常に親密な関係にあったため、結果がどうであれ常に両親のそばにいる義務があると感じていましたが、残念なことにそのことが両親や他の家族を危険にさらすことにもなってしまいました。まだ活動家として標的にされていたからです。テロが悪化するにつれて彼が日本に逃げることを両親は決意し、そこで最終的に永住しようとしたのですが、日本への期待は厳しい現実に直面しました。難民認定が受けられないとわかると事態は一転し、拘束されるか、政治的活動や意見によって取り返しのつかない被害を受ける危険のある母国に強制送還されるかの最後通告を突きつけられたのです。

1. 背後に迫る敵

1.1. 両親の世話

「両親への愛のために面倒を見よう」

サナは心臓発作を起こした母親と、糖尿病を患い、最近脳卒中を起こした父親の面倒を見なければなりませんでした。彼は当時をこう振り返ります。「とても大変でした。兄弟のほとんどは遠くに行ってしまった。結婚したり、遠く離れた国へ行ったりして…僕はただその『税』を負い、両親を手伝うためにブルキナファソまでついていくことにしたんです。」両親の面倒を見ることにした彼がいかに献身的であったか分かります。この 「税」は、イスラム教では両親を敬うためにサナに課せられた義務で、両親への愛と献身のためでもありました。それゆえ、彼は情熱を注いでいた開発学や社会擁護活動の歩みをすべて止めても構わないと思っていました。

サナは、両親に毎日薬を飲ませて適切な医療を提供するなど、多くの責任を負っていました。残念なことに、戦争と暴力行為が増加したことでブルキナファソでは経済的手段が不足し、医療の質が著しく低下しています。世界保健機関(WHO)によると、紛争の激化とブルキナファソの医療制度への財政投資の不足はサナの両親を含む国民に大きな影響を与えて、十分な医療を受けられなくなってしまいました。制度を改善しようとする努力はいくつかありましたが、医師は人口1万人に1人以下しかおらず、しかも低賃金だったのです。

両親のためにベストを尽くそうと、彼は毎月ガーナに行くことを余儀なくされ、金銭面と安全面の負担が増えました。テロの脅威に加え、途中で対立部族に襲われる大きな可能性もあったからです。その結果サナと両親はガーナにある父親の家に帰ることが許されなくなり、ガーナでの長期滞在先がなくなって、旅がさらに困難なものとなったのです。さらに、これらの土地に二度と帰れないということは、記憶を消されるようなものでもありました。家族にとって最も大切なものを少しずつ失っていったのです。危険を避けるため、サナは両親を連れてガーナとトーゴを結ぶ地域を通る通常の経路(緑)ではなく、遠回り(赤)をしました。

ブルキナファソとガーナを結ぶ2つの経路 (AFPより作成)

「安全で、狙われている場所から離れたところが良いと思いました。」

フラニの部族の印 (Trip Down Memory Lane)

緑色のルートでは、特にサナの地域の多くの人々が部族や宗教の違いから襲われてしまいます。彼の地域では誰もがモシ族であり、キリスト教徒かイスラム教徒でお腹には部族の印があるため、サナと両親は部外者であることが一目瞭然なのです。バウク地区で遭遇する相手はフラニ族かクサシス族で、顔には部族の印があります。ガーナや他のアフリカ諸国では、部族の印は身分証明、精神的な保護、薬用など、さまざまな理由で使われています。このルートを歩くということは、遠くから撃たれて即死する可能性があるということだったのです。

死に直面し、病気の両親の責任を負わなければならないという思いは、サナにとって精神的にも肉体的にも大きな負担となりました。しかし、献身的な息子である彼は、両親が最適の治療を受けられるよう自分の出費を顧みず、必要なことは何でもしました。途中であらゆるリスクや脅威に向き合わなければならなかったにもかかわらず、サナは最終的にこの大きな義務に耐え、決してあきらめなかったのです。

1.2. ブルキナファソに残る危険性

「彼らのような生き方に従わないように啓蒙活動を行なっていました。その結果恨みを買ってしまったんです。」

「遠くに立ってただ撃ってくることもあります」

サナはブルキナファソに残るという選択肢は、家族を危険にさらすことを意味しました。家族の男性は争いに巻き込まれることが多く、サナの居場所を突き止め、活動を止めさせようと、テロリスト(ジハード主義者)がサナの家族に危害を加える可能性があったのです。実際、テロリストから積極的に狙われたサナの叔父や兄弟たちは、家や事業を破壊されたり、焼き払われたりしました。しかし、テロは西アフリカでは珍しい光景ではなく、サナの家族を含む無数の市民に影響を与える大きな問題です。ブルキナファソでは、2022年12月時点で、約200万人が暴力によって国内避難民となっています。標的のほとんどが男性となっているため、父親に扶養されていた家族は、市場や畑へのアクセス、適切な医療や食料の確保といった基本的なニーズを満たすことができないのです。

父と家族と写るサナ

さらに、西アフリカ諸国では銃器密売市場があるため武器の入手はそれほど難しくなく、警察や国軍でさえ、その市場の大きさを恐れています。サナはこう説明します。「彼らが西側諸国から支援を受けているのか、それともロシアから支援を受けているのか、私たちにはわかりません。だからとても難しいんです。」サナの懸念は、ブルキナファソにおけるロシアの影響力の存在に関連しているのかもしれません。例えば、ワグネル・グループはアフリカにおけるテロリズムを煽っていると言われています。彼らはアフリカ諸国での集団残虐行為、拷問、即決処刑、その他の残忍な犯罪で告発されてきました。法執行機関は強力な反対勢力と対峙していたため、サナをこうしたテロ集団から守るのは極めて難しくなったのです。このような保護と安全の欠如は、ガーナとブルキナファソに残っているサナの家族の生活を困難にしました。サナが国外へ逃れた後も、サナの家族はサナの居場所について尋問を受け続けています。

2. 告げた「さようなら」

2.1. 家族との別れ

「両親を置き去りにはしたくなかったので、同意するまで3日くらいは泣きました。」

「あの時去っていなければ今頃撃たれていたでしょう」

サナにとって、家族と別れて日本に移住することは非常に困難なことでした。特に仲が良かった両親の安全を確かめることが重要だったのです。特に辛かったのは、末っ子としてとてもかわいがってくれた母親と離れることでした。母親が旅先で働いていても家で叔母たちと料理をしていても、幼い頃からいつもくっついていました。母親の健康状態が悪くなると、サナはそばにいて助けていたのです。これは、自分と家族を守るために手放さざるを得なかった、壊せない絆でした。彼の人生を通じて約束の場所に同行し、一緒に旅行し、多くの時間を共に過ごした母親に対しては特にそうだったのですが、もちろん両親と離れたくありませんでした。しかし、この絶望的な時期にはそれしか選択肢がなかったため、両親は彼のために計画を立ててくれたのです。

ビジネスのビザで入国し、叔母の代理として会議に出席し、2週間ほど滞在して可能な限りビザの延長を受けるという計画でした。この移動は困難でしたが、サナは叔母や他の家族が両親の面倒を見てくれると確信していました。サナは捕まるのを避けるため夜中に密かにブルキナファソを出発し、20時間かけ、モロッコを経由して日本へ向かいました。待ち望んでいた迫害からの解放感と、離れ離れになった愛する家族の安否への不安が入り混じったほろ苦い思いでした。

3. 次は 日本

3.1. 警察に止められて

「僕たちがまるで犯罪者か何かのようでした。とても心配だったし、怖かった。だからその日は『日本ってこうなんだ』と思いました。」

「突然パトカーがやってきて止まり身分証と鞄の中身を見せるように言われました」

日本に到着したとき、サナは日本がどんな国か、どんな人々なのか自分なりのイメージを持っていました。子供の頃、サナは父親が買ってくる新しい時計やバイクなどの高品質な製品に関心を持っていました。それが日本製であることに気づくと、日本の世界的なイメージに興味を持ち、戦争を放棄した日本で暮らすことはどれほど平和なのだろうと、日本について調べるようになったのです。彼は伝統的な日本に傾倒し、父親が自分を育ててくれたのと同じようにモラルと広い心を持って、いつか妻や子供と日本に定住したいと考えるようになりました。これは、ヨーロッパの西側諸国やアメリカのに逃れることを決めた兄弟とは対照的でした。ブルキナファソとガーナで直面していた状況から、日本は平和、調和、チャンスの場所という自分が憧れるすべての資質を備えた国だと思ったのです。

日本に対するこのような楽観的な期待を抱いていたサナは、到着して数日後に違う現実を目の当たりにしてショックを受けました。ビジネス会議の後空港で出会った他の外国人たちと横浜で道に迷ってしまったのですが、警察は彼らを呼び止めて検査し、身分証明書の提示を求め、持ち物をチェックし、どこから来て何をしているのかと質問してきました。同じ通りを歩いていた酔っ払いの日本人が警察に何も注意されなかったのと比べると、自分たちが人種差別を受けたように感じたといいます。「『何か悪いことをしましたか』と聞いても、警察は何も言いませんでした。どこに行けばいいのかも教えてくれなかった。希望を失いました。」と振り返ります。レイシャルプロファイリングと呼ばれる人種をもとに職務質問を行う行為は日本では広く行われていますが、まだあまり問題視されていません。外国人や外国系に見える人々、特にラテンアメリカ系、アフリカ系、中東系の人々はたいていその被害者で、警察から罵詈雑言やボディチェックなどの行為を受けています。実際、2021年に日本の警視庁は「車を運転している」「ドレッドヘアである」という理由で外国人を呼び止めて質問するといった不適切な事例があったことを認めています。

新宿をパトロールする警察官 (The Sun)

このような扱いはサナたちを恐怖を与え、自分たちは何の問題も起こさずただ歩いていただけなのに、理由もなく国に強制送還されるのではないかと心配になりました。サナがかつて日本に対して抱いていたイメージや、日本政府に対する信頼が大きく変わった出来事でした。差別を受け、彼が日本に来ることを決めた当初に考えていたほど、日本が平和ではないのかもしれないと思ったと言います。ブルキナファソを去った後に解消された不安と恐怖が、再び彼の人生に忍び寄りました。

4. 難民になるかならないか

4.1. 日本に残る決断

「彼らは実家や叔母の店、父の仕事場にも押し入り、燃やされました。」

「親に『帰るなんて考えもしないで』と言われました」

日本に滞在して2週間後、サナの叔母から「帰るなんて考えもしないで」と電話がありました。「何が起きても自分たちは大丈夫だと両親は言っているし、僕のために祈ってくれています。」とサナは話します。父親の会社は焼き払われ、家はサナを探して押し入られていました。サナのアフリカから日本への旅において転換点となったのはこの時でした。ブルキナファソやガーナに無事に戻れる可能性もなく、日本に残るという選択肢しか残されていなかったのです。両親や他の家族の無事を強く信じていたサナは、どんな状況になっても帰らないと決めました。

この時サナは自分が庇護を求めることができることを知らなかったのですが、幸運なことに難民認定を受けようとしていたガーナ出身の友人が申請手続きを手伝ってくれました。ボランティアの助けを借りて申請書を翻訳し、関連書類を送ることが何とかできたのです。2019年9月9日、サナは難民申請を決意し、2カ月の仮滞在が認められました。サナはその過程を「難民になったという実感どころか…ただ書類手続きの山でした。」と説明します。自国での迫害から逃れてきたにもかかわらず難民という感覚はなく、日本への普通の移住者と自分では思っていたサナでしたが、自分の状況を証明するために必要な手紙、写真、新聞などの書類の山を目の当たりにして、日本における自分の法的地位が移民とは異なるという事実を悟ったのです。

1件の難民認定申請に必要な書類の山 (JAR)
イスラム教コミュニティの仲間と写るサナ

この頃、母国に帰れないという不利な状況を最大限に生かそうと、サナはここで暮らしながら達成したいことを思い描くようになりました。英語を教えたい、日本語を勉強したいという夢もあったのですが、一時的な在留資格のため、働くことも国民健康保険に加入することもできませんでした。それでも日本のイスラム教徒のコミュニティからお金や食料の援助を受けることができ、そこでガーナの人々や短い滞在中にできた友人たちと出会いました。仮滞在期間中に他の人たちとのつながりができたことで、難民認定されてやがてはテロの脅威から逃れて安全に日本での生活を確立できるのではないかという期待で、先行きが明るくなり始めました。

4.2. 日本生活への適応

「とても大変でした 言語の壁があったので」

仮滞在の2カ月間、サナはガーナから来た友人の家に滞在しました。彼は日本に適応するのがいかに大変だったかを話してくれたと言います。よく道に迷い、言葉の壁のために他人とコミュニケーションをとるのに苦労したそうです。彼の国では、見知らぬ人が道に迷ったときでもその人を助けたり、家に帰るのを手伝ってくれたりします。このような文化の違いから、サナは日本に当初抱いていた期待、つまりすべての人が親切で平和的であるという考えには必ずしも合致していないことを思い知らされました。

ホームステイしていた間、その友人は困ったときにどうすべきか、日本の生活にどう適応すべきかをよく教えてくれました。夜中に警察に呼び止められ強制送還を心配した時のような、日本での初期の経験がかなり否定的で恐怖を呼び起こすものであったのに比べれば、これは彼にとって大きな助けとなりました。だから、日本での新しい生活でこのようなサポートがあることは、サナにとってとても心強かったのです。日本での生活に慣れるのに苦労していたサナを生活様式に適応できるように導いてくれたのは、周りの親切な人たちでした。

5. 悪化へ一転

5.1. 保証人の裏切り

「そのせいで、不安になって…人を信用するのがとても難しくなりました。もう誰も信用できません。」

「他の人たちと同じように受け入れられると強く確信していました」

サナには頼れる友人がいましたが、彼の信頼を悪用する人もいました。難民申請用のビザの延長の際は保証人を立てるように言われて、その面接に同席して書類を提出すると約束した男性を信頼していたのですが、驚いたことにその人は現れませんでした。何時間待っても返事がなく、つまり、サナは自分の国に戻るか収容されるかの難しい決断を迫られたのです。彼は両親から言われたことを思い出しました。ガーナとブルキナファソの外側で辛抱し、帰らないということです。信頼できると思っていた人に裏切られたサナはひどく落ち込みました。日本に来て以来、庇護を求める他の外国人、イスラム教徒のコミュニティ、ガーナ人など、同じようなバックグラウンドを持つ人々とポジティブな経験をしてきましたが、サナが無関心に感じていた日本社会での経験とは異なっていました。自分が受け入れられていると感じたことのない国で、自分のためにいてくれると思っていたコミュニティの誰かに騙され、脆弱な状態になってしまったのです。サナの希望と夢は一瞬にして打ち砕かれ、思ってもみなかった望ましくない最後通告を突きつけられました。サナは収容と強制送還の狭間に立たされたのです。

5.2. 収容された過程

「釈放されなくても殺されず家族も安全ならそれでいい」

サナは、健康診断を受け、強制送還担当の所に連れて行かれた経緯を説明します。他の選択肢がないまま母国に強制送還されるか収容されるかと思い、恐怖を感じたと言います。さらに、与えられた2つの選択肢以外にも道があったかも知らされなかったとのことです。1ヵ月後初めて、配偶者やスポンサーがいなければ、他の場所に再定住することも何らかの配慮も受けられないとの説明がありました。当時サナは保証人がいなかったため、収容か国外追放になるということしか伝えられていなかったのです。

この情報不足は、日本にいる庇護希望者の多くが何も知らされていないことを物語っています。サナの場合、そのせいで防ぐことができたかもしれない結果に対して脆弱なままになってしまいました。この拘束は突然のことで、サナは自分が滞在していた場所に戻れないと友人に知らせることができなかったのですが、2週間後、友人のエリザベスに自分の状況を知ってもらうことができました。一緒に滞在していた友人は、家に帰らないサナをとても心配していました。サナは家族や友人とともに身元保証人に連絡を取ろうとしたのですが、その保証人は基本的に空約束を繰り返し、彼を助けようとはしませんでした。そのため、いつ、どうすれば出所できるのかまったくわからないまま、なすすべもなく品川の入国者収容所に取り残されてしまったのです。結局サナに残されたのは、故郷の家族を守る義務と、このひどい状況でも何とか事態が好転することを信じることだけだったのですが、これは彼にとって、自分の経験の中で予期していなかった、「現実を直視し、すべてを神に委ねるしかなかった」新たな章でした。

品川入国者収容所とも知られる東京出入国在留管理庁 (Mainichi)