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サナはガーナの田舎で学生活動グループのために働いているときに自転車に乗っているところを襲われ、テロリストに誘拐されました。足を骨折し歯を失ってそのテロリスト・グループの人質となり、3日間食べ物も水も与えられず、自分は死ぬだろうと思いながら生き延びました。被害者と加害者のどちらもイスラム教徒だったのですが、サナは拷問や脅迫を受けても、彼らの厳格な宗教観に従うことはありませんでした。
1. 囚われの身
「私が考えを変えると思って、脅そうとしていました。」
20代前半の頃、サナはガーナの農村部でさまざまな社会問題を提唱することを目的としたサード・トリメスター・フィールド・プラクティカル・プログラム(TTFPP)で働き始めました。イスラム教の中心的な宗教文書であるコーランの解釈が異なるため、ガーナに入ってくるテロリスト・グループと真っ向から対立することになったのです。脅されても、サナは彼らのやっていることは正しくないと分かっていたため要求に従うつもりはなく、「彼らは『自分たちがやっていることは全て正しい、イスラムの教えに従っている。』と言ったのですが、私は、『いや、そんなことない』と答えました」と話します。サナに深い影響を与えたテロリズムに関する私達のインタビューの冒頭から、彼は自身の信仰の過激派と確実に距離を置くようにして、テロリストとは違うことを示していました。


長い3日間の後、ようやく安堵が訪れました。誘拐犯のほとんどは立ち去り、サナの世話をする責任者一人だけになったことが、彼にとって思いがけない幸運となりました。その人が彼を憐れみ、解放してくれたのです。重傷を負いながらも、サナは逃げることができました。しかし、囚われの身ではなくなったとはいえ、テロリストから完全に解放されたわけではなかったのです。
2. 現場での重要な仕事

「自国民のため、そして国のために献身するのです。」
サナはもともと、ガーナ大学在学中に専攻していた開発学の必修科目としてTTFPPに参加しました。学生は2年以上にわたって、指定された農村地域で合計8週間を過ごすことが義務づけられています。最初の1年間はその地域で過ごし、彼らのニーズをより深く理解するそうです。「人々と話し、彼らが直面している問題を見つけて何を望んでいるのかを知ろうとするのです。」とサナは説明します。2年目になると、自分たちが提案したプロジェクトに取り組み始めて2ヶ月間そこに滞在するのですが、その活動は決して華やかなものではありませんでした。「アウトリーチのために最も離れた地域へ行くにはボートに乗らなければならないこともあって、軍隊のようでした」と語るサナですが、私たちと話すあいだは当時を懐かしみ、いい思い出を抱いているかのような笑顔を浮かべていました。TTFPPへの参加は私生活や幸福度に悪影響を与えることとなってしまったのにもかかわらず、彼は支援活動に費やした時間に恨みや後悔を抱いているようには見えませんでした。
「とても辛かったけど、何かを成し遂げることができました。」
このプログラムに参加している間、自分がコミュニケーターのひとりとして地域と大学の橋渡しをしていたことをサナは話してくれました。「僕は人々に話しかけて、彼らがしていることの影響について啓発するようなことをしていたんです。」と説明します。しかし、このことは彼を危険にさらすことになってしまったのです。彼が話した相手全員が広めようとしていたメッセージを受け入れてくれるわけではありませんでした。「話をしようとすると、彼らは怒るんです。『学校に行ったからって、何様のつもりだ』って。追い出して、殴ろうとさえする人もいました。」と振り返ります。この仕事はサナにとって重要でしたが、同時にテロリストとのイデオロギーの戦いの最前線にも立たされたのです。

私たちのインタビューでサナが好んで取り上げたのは、女性の権利の問題でした。1回目のインタビューから、自ら話し始めてくれました。「扱ったのは犯罪やコミュニティの社会問題について、それから男女平等。こういうことに取り組んでいました。だから政府やジハード主義者を自称するテロリスト集団からも狙われたんです。」と話します。このことは、ガーナから日本へ移った理由について尋ねたときも話してくれました。「『文化的な慣習だから廃止するわけにはいかない』と言うので、『廃止すべきだ』と反論しました」と話す時代にそぐわない慣習の一つが、女性器切除(FGM)です。他人とオープンに話すのは難しいテーマですが、サナは私たちにこのことを説明してくれました。ガーナでは1994年にFGMは法律で犯罪とされました。その後明確化するために2007年に法改正されたのですが、それにもかかわらず、FGMはいまだにガーナのアッパー地域で続いており、ガーナ以外の諸国でも未だに行われています。FGMがコーランとは別の教義であるハディースで許されているかどうかについては、イスラム社会の指導者たちの間で意見の相違があります。
3. 逃れられない恐怖
「この種のテロリスト集団は…自分たちの生き方を持っていて、それを人々に強要して同じような生き方をさせようとしているのです。」
イスラムとムスリムの支援団とはマグレブと西アフリカ(ガーナとブルキナファソ)を拠点に活動する過激派ジハード主義グループで、英語ではGSIM、フランス語ではJNIMとも呼ばれます。セネガル、モーリタニア、マリ、アルジェリア、スーダン、ブルキナファソの一部とアフリカ大陸の他の多くの国々を含むアフリカのサヘル宗教でより大きな力を発揮するために、アルカイダ関連組織と分派グループが合体して形成されました。長年にわたり勢力を広げており、ブルキナファソを超えガーナでも多くの攻撃と死者を出してきました。

この組織はガーナ国軍と頻繁に銃撃戦に発展しており、2022年10月にはガーナ軍の兵士13人を殺害したのですが、同年4月にはロシアのプーチン大統領の私兵として機能するワグネル・グループのメンバーをマリで捕らえたと主張しました。ワグネル・グループはロシアのしています。これを受け、2018年にアメリカの国家情報機関はGSIMを対外テロ組織リストに追加しました。2022年11月にフランスはアフリカのサヘル(ブルキナファソを含む)における安定を確立しジハード主義者の影響力を弱めようとしたバルカン作戦を10年ぶりに終了しました。GSIMはサラフィー・ジハード主義と呼ばれるイスラム教のイデオロギーを信奉していますが、それはイスラム信仰を預言者モハメッドの時代に戻すべきだという信念なのです。グループとしてのGSIMは、政治的利益のために地域社会の不和を利用することで知られています。
「私たちにとって、再びこの地域で暮らすことはとても難しいことでした。」


「時々彼らは僕たちを攻撃しようとして、もし僕たちが村々を回っているのを見たら『殺す』と言おうとしていました」と、サナは自分の大学のグループがGSIMに脅されていたことを説明します。「やっていることをやめるべきだと。それを拒否したので、僕たちを標的にし始めたのです」と話します。標的にされたのはサナだけではなく、同じグループの活動家の友人もでした。サナたちの中でGSIMから直接狙われた人はいるのかと尋ねると、「一人殺されたんだ」と教えてくれ、地方でインフルエンザの感染が広がっていたため、積極的にインフルエンザの予防接種について啓蒙しようとしていた友人について、「その地域の人たちに話をしに行き、一人で戻ってきたところを撃たれて亡くなったのです」と話してくれました。警察に助けを求めると、彼らも暴力と死の標的となってしまいました。「私たちが通報すると警察と撃ち合いになり、3人の警察官を殺して彼らも6人死にました。」と話します。
物事はいつもこうだったわけではありません。サナは、テロリストと衝突する前の彼の地域がどのようなものであったか、特にキリスト教徒とイスラム教徒の間の友情について話してくれました。歴史上この2つの文化は互いに対立させられちですが、サナは、自分が育った時代はそうではなかったと言います。「平和に共存していましたよ。一緒に食事をしたり。神を崇拝しているのは一緒で、違うのは崇拝の仕方だけだって、皆そういうふうに理解していました。」と話すサナはクリスチャンの友人と教会に行ったこともあり、最初のガールフレンドがクリスチャンだったことも教えてくれました。「最初のガールフレンドはクリスチャンでした。彼女についていってカトリック教会に行ったものです。」と振り返ります。サナの叔父のひとりは父親よりも厳格で、サナが叔父とは違う考え方をしているのは話していて明らかでした。「厳しすぎる」という叔父と違う意見を持っていたサナの父親は「もっと理性的になるべきだ」と話していたと言います。「あああるべきじゃない。イスラム教徒じゃないからって信仰がないわけじゃないんだ。僕たちは皆神を信じているし、同じ神を崇拝している。審判を下すのは神だけだ。」と父親の考えを話してくれました。
4. 巻き添え被害
「彼らは『復讐しなければならない。、絶対に捕まえてやる』と言ったんです。」
GSIMと関わるとその家族も巻き込まれるということにサナはすぐ気付きました。中心人物であり警察に情報を提供したのがサナだと知ると、さらに標的にしてきたのです。「警察にすべてを話したら、彼らがどこにいて、どこに住んでいるかという情報を教えたのは僕だとわかったのが主な理由でした。」と説明します。サナを探すGSIMは、サナの家族を脅迫するようになり、「時々彼らは銃で家族に襲いかかって僕の居場所を聞き出そうとして、僕を連れ出すように要求してきました」と話します。サナと一緒に過ごして頻繁にビジネスをしていた叔父は、不運にも命を狙われて撃たれたのです。そのときは幸運にも一命を取り留めましたが、叔父の命を狙ったこの企てはそれだけでは終わりませんでした。サナは日本に避難した後に、叔父が2度目の襲撃を受けて今度はテロリストが成功したことを知ったのです。「叔父をただ殺す彼らのやり方はとてもひどいものでした」と話す彼の声は落ち着いてはいるものの悲しみを帯びており、私たちは皆、サナが叔父のことを心から思い、その死の傷がまだ深く残っていることを感じました。

5. 真夜中の避難
「彼らが叔父を殺したとき、父はとても苦しんでいました。」
サナはある日、自分がどれだけ標的にされているかを思い知りました。ブルキナファソ政府で働いていたとき、彼のグループが乗っていたタクシーが攻撃され、テロリストがタクシーを止めて人々を引きずり出し始めたのです。「僕は1台目のタクシーに乗っていて、2台目の方が襲撃されました。皆無事でしたが、怪我はしていました。」と話します。自分が標的だったのかどうかは確信がないとのことでしたが、この事件で彼は自分がまだ狙われていることに気づき、祖国での将来が不確かであること、そしてより安全な国へ旅立つのが最善であることを悟ったと言います。彼の兄弟たちはすでに出国しており、奨学金を得てドイツに行った兄弟もいました。弟だけでなく、「僕たちはみんな、基本的に僕のせいで標的にされたから出て行ったんです。それで父さんは、僕たち全員が国を去るように言ってくれました。そうして、弟たち、他の兄弟たち、みんな出て行ったんです。」と話すこの決断はサナにとって軽いものではなく、病気の両親を置き去りにするストレスは彼に精神的な打撃を与えました。「両親を置き去りにするのは心が痛みました。だから、3日くらい泣いていました。兄弟のほとんどはすでに出ていて家には僕しかいなかったので、『分かった、去るよ。』と同意したんです。」と話します。サナの父親は、息子たちを安全な場所に連れて行くためなら自分の財産を売ってでも何でもすると言ったそうです。どこに安全を求めて逃げるかとなり、サナが選んだのは日本でした。「『日本がいいな』と言ったんです」と訳を説明し始めます。
彼の叔母は実業家で日本でのビジネス会議に招待されていたのですが、日本に行くことができず、サナに代わりに行かないかと聞いていたそうです。「僕が生き延びるためならと叔母は僕が行けるようにしてくれたんです。だからビジネスビザで来ました。」と話します。サナは難民として日本に入国するための申請もしていましたが、手続きには時間がかかっており、これは絶好の機会だったと説明します。「『心配しなくて良い』と、叔母は『自分が両親の世話をするから心配しないでと、とにかく安全でいて』と言ってくれました」と話すサナですが、祖国を去る決断は難しいものだったと、「そういう訳で後にしたんですが、辛かったです」と強く語ります。続けて、テロリストが一度個人に狙いを定めるとどんな手段も使ってくることを教えてくれました。「彼らがやってくると、家を破壊して、燃やされるんです。僕が家にいると分かれば。押しかけて荒らして略奪していんです。遠くに立ってただ撃ってくることもあります。」と話すサナは、テロリストは周囲の人々が巻き添えを食らっても気にせず「うっかり銃弾が当たることもあった」と説明します。
「何が起きても不思議じゃないと恐れていました。道中で攻撃される可能性もありました。」
ブルキナファソから日本への移動の経路について話を聞いていた時、信頼できる人がいたかと尋ねると、サナはノーと答え、「こっそり、夜に出発したんです。」と言いました。「それで車で迎えに来てもらって、そのまま着きました。叔父の息子が空港まで送ってくれたんです。」と話し始めると、いつもは冷静で落ち着いたサナが、愛する人を置き去りにしなければならなかったことについて、感情を抑え涙をこらえているように感じられました。攻撃に怯え真夜中に故郷を去ったサナがようやく安堵感を覚えたのは、モロッコに到着した時でした。「遠くにいる今、たとえ狙われても、居場所がバレるには長い時間がかかる。」とその時の想いを教えてくれました。モロッコで1日を過ごした後、トルコに渡り、そこから日本へと飛びました。日本に到着し、サナの人生の新たな章が始まったのです。


日本に来るまで (Google Maps)