入国者収容所

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破綻する倫理のイメージ (Precedent Magazine)

「私は東京の入国者収容所の中にいる。そして、私は声を上げる。なぜなら、私には話すという自由があるから。」

サンデイにとって、入国者収容所に収容されていた日々の中で最も辛かったのは初日でした。家族がとても恋しくなり、妻と子供のことが気がかりで心配だったからです。しかし、そのほかの入国者収容所での日々は彼が母国で迫害されていたときと比べれば、彼にとってはなんでもないことでした。日本にいるサンデイには、信念を持って話す自由があるのです。

入国者収容所でのサンデイは、収容所内の人権侵害問題の解決を求めて声を上げることで周囲の人々に多大な影響力を与えるリーダー的な存在でした。しかし、職員が目を光らせ監視する入国者収容所で彼のように問題提起をし、少しでも解決や改善に向けて一歩を踏み出せる人というのは、とても数少ないのです。そして、いつ入国者収容所から出られるのか分からない先行き不透明な状況で、被収容者たちは大きなストレスに晒されます。彼らの多くは、死を恐れて逃げてきた母国への強制送還を逃れ収容所から出所できるよう申請書を提出しますが、その申請に悪影響が出るのを恐れ、人権問題に繋がるような問題であっても声を上げることができないのです。

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代表して声を上げるリーダー的存在のサンデイ。サンデイと一緒に収容所にいる人たちのほとんどは恐怖から一歩を踏み出すことを拒みますが、彼は積極的にそんな人たちと話し、励まします。なぜ長期収容されていても声をあげないのか。周囲の人は面倒臭いというけれど、サンデイは「やってみなければわからないのだから試してみよう」と常に問題解決に向けて動くのです。

もともと入国者収容所に収容される以前、サンデイは日本で難民認定申請をしていました。しかし結果は却下、不認定。その後、彼はこのような日本での難民申請者に残された方法である、不認定に対する裁判での不服申し立てを選択しました。これは、裁判にはたくさんの時間を要するため、直ちに入国者収容所に収容されることはなく、難民として認定される確率は日本滞在期間が長い方が少し高くなるということをサンデイは聞いたことがあったからです。しかし、これも確率の話であり、移民政策にとても厳しい態度をとる日本で難民認定を受けられる人は毎年ごく僅かです。サンデイは今でも難民認定申請が不認定だった理由を陪審員に尋ねたときのことを覚えていると言います。返答は毎回、サンデイが用意した難民である証拠の80%は認定するが、残りの20%は認定できないということでした。結局それ以上詳しい説明は得られず、ただただ全てにおいて根拠に乏しいと言われたのです。裁判での審査とさらなる三度の面接の結果、サンデイは難民認定の代わりに仮放免の措置を与えられました。仮放免中は、定期的に出入国在留管理庁で新たに申請をする必要がある上、移動の自由が制限され就労もできません。サンデイは、厳しく管理されてるように感じたと言います。仮放免はビザではなく、難民認定をはじめとした正式なビザが下りなかった外国人が、収容の前後で一時的に与えられる仮の措置なのです。

1. 入国者収容所に収容された日

2016年12月14日、朝6時30分、サンデイは品川駅近くに位置する東京入国管理局(現在の東京出入国在留管理局)に来ました。この日、彼は自身の仮放免を更新するためにここに妻と二人の幼い子供を連れていました。その子供の内の一人は、ちょうど一ヶ月前に生まれたばかりでした。

Google Earthで上空から見た東京出入国在留管理局の収容施設(中央の十字形の建物)。通称品川入国管理局。
上を見上げるように撮影された東京入国管理局(現在の東京出入国在留管理局)入口付近 (AP Photo/Shizuo Kambayashi)

品川に到着したとき、サンデイはすでに仮放免の更新がこの日は受理されないのではないかと、虫の知らせか直感で感じていました。この日までに彼は難民認定を求め裁判で三度争い、その三度全て負けてきたからです。そして、この申請日の5日前に三度目の裁判の結果が通知されたばかりでした。それでもサンデイは、希望を捨ててはいませんでした。彼はひと月前に生まれた子供を連れていましたし、小さな子供をもつ父親として東京出入国在留管理局の職員からの同情と理解を期待していたのでした。サンデイはこう話します ー「私はこの日、何が自分の身に起こるか分かっていたんです。しかし、それと同時に僅かな希望もありました。小さな幼子を連れている私を家族から引き離すことなんて、もし職員たちが優しければ、やるはずがないと。」

残念ながら、彼の直感は当たってしまったのか仮放免は更新されず、さらには面接に応じるように呼ばれてしまいました。サンデイは今回はいつもとは面接の雰囲気が違うと感じ取りました。普段は面接に子供たち同伴を許可してくれる職員たちが、今回ばかりはサンデイ一人で来るように命じてきたのです。普段との違いから、その理由を尋ねるも、職員たちは曖昧な返事をするだけでした。たまらなくなったサンデイは彼らに、単刀直入に彼に面接の目的を伝えるように要求しました。

東京出入国在留管理局で面接に応じたときの出来事。職員に自分を収容する目的で呼んだことを単刀直入に告げるように言ったと言うサンデイ。それでも、「今回は違う別のインタビューだから」と言葉を濁す職員たちの様子を語ります。

「私にはっきりと直接、今日はあなたを収容するつもりだと言ってくれ。曖昧な返事でうやむやにしないで欲しい。私にはあなたたちの意図していることが全て分かっている。」

「ボス(上官)からの命令だから」と面接を担当した職員は最終的に、サンデイが今日から収容されることを伝えました。これは、仮放免が更新されなかったこと、つまり収容の代わりに一時的に与えられる仮の措置が停止されたことを意味しており、この東京出入国在留管理局の上階に位置する収容施設に収容されることとなりました。サンデイは、突然自分の身に降りかかってきたこの出来事を受け入れるほかないと思ったと言います。彼を収容するという決定は、彼を面接した目の前の職員ではなく、出入国管理を管轄する法務大臣からのものだからです。職員には、彼の収容決定を阻止する権限はありません。そんな中、サンデイが以前から交流のあった職員の一人が彼の元に近づき、「強くいるんだぞ」と励ましてくれました。サンデイには人を惹きつけるような影響力があり、今までも広い人脈のおかげで日本の難民認定申請において必要な情報と助けをたくさん得ることができていました。難民認定制度に厳しい規定を設ける現在の日本では、サンデイのように難民認定に向けて大変な苦労をする人々が多く存在するのです。

夕方の7時30分ごろ、家族と離れる時が来てしまいました。サンデイの妻は夫が子供を残して連行され彼女の元から去ってしまうことを恐れ、抵抗しました。そして、二人の幼い子供たちにはこの出来事は到底理解することはできません。サンデイの妻は、最後まで子供たちとサンデイが離れないようにすることで、なんとか夫が収容されないように試みましたが、とうとう出入国在留管理庁の職員たちが出てきて、家族をサンデイから引き離す事態となってしまったのです。「たくさん人がやってきたので、私と妻はJAR(難民支援協会)やUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の人々に助けを求めようとしましたが、どれもこれも全てうまくいきませんでした。」とサンデイは妻と職員の間で押し問答になっていたときのことを思い出すように言いました。サンデイにはこのときこれ以上は何もできませんでした。「私は、落ち着いて現実を受け止めるように、そして強くいるようにと妻に言い聞かせました。」と話します。サンデイは泣く妻に、収容施設からはすぐに出てこられる、刑務所とは違う場所なのだと説明することしかできませんでした。

2. 東京出入国在留管理局の
収容施設の中での日々

サンデイは入国者収容所の中でもとても影響力のある人物で、情報の発信源、そして皆のリーダーでした。品川の東京出入国在留管理局の一階では、ビザの更新など通常の各種手続きが行われています。その一方で、同じ建物の上階では多くの外国人が収容されているのです。この上階にある収容所の詳細は、一般公開されておらずほとんど隠された存在となっています。しかし、この場所に正式なビザが与えられなかった多くの外国人が収容されており、ここでの生活や出来事はあまり知られていません。

この外から隔離された施設はいくつかのブロックに別れており、違うブロックの間で交流することはありません。交流できるのは同じブロックに収容されたメンバーのみで、彼らは小さな部屋に振り分けられ、様々な施設用品をシェアします。用意されている施設用品も、生活必需品と呼ばれるものばかりです。

東日本入国管理センター内の部屋の一室 (Reuters)

たいていの場合、彼らは文化も習慣も違った様々な国籍の7〜10人で一つの部屋をシェアします。サンデイによると、収容所内には「囲まれた運動広場」のような場所があり、そこで「体を温めたり軽い運動をしていた」そうです。小さな部屋にたくさんの人が押し込められ、毎日長時間座っているか、寝ているのでは健康面で大きな危険が伴うとサンデイは警鐘を鳴らします。また、同じ小さなスペースに閉じこもっていることは体調不良だけでなく、精神面にも異常をきたす危険性があると彼は言います。精神的にストレスがかかるのは被収容者はもちろん、その被収容者を監視する職員も同じだそうです。「監視員も、私たちと同じく被収容者です。」とサンデイは、監視員も自分たちと同様ほとんど外に出られず、一つの場所に監禁されることの精神的負荷があると語ります。サンデイはよく、監視員がストレスを溜め込んで叫んでいるのを聞いていました。入国者収容所は被収容者の身体と心の両方を徐々に追い詰め、最終的には強制送還に追い込もうとする拷問の一つではないかとサンデイは考えています。

プライバシーのない収容所では被収容者はみんな神経をすり減らしていて、とても些細なことで喧嘩や争いが起こります。そのような厳しい状況であっても、「私たちは一つの大きな家族になる必要がありました。」とサンデイは言います。強制送還を恐れストレスに上手く対処できずいた多くの被収容者たちをサンデイは励まし、「中にはやって来て怖がっている人もいたので、話しかけて寄り添っていた」そうです。そしてサンデイは自らが情報の発信源となり、彼らに入国者収容所から釈放されるためにはビザや仮放免の申請書を提出することがまず第一だと伝えました。多くの被収容者にとって、これらの情報は新しいものであり、何も知らない人はただ釈放される日を待ちながら収容生活を送ります。だから、サンデイはその申請の認定率が限りなく低いことを知りながらも、できる限りのことはやるべきだと考えていました。被収容者の中には、このようなリーダーシップをもつサンデイの行動力に影響され、ビザや仮放免を求める申請書の記入を始めるものもいて、被収容者内での空気の流れが変わりだしていました。そんな彼の行動に出入国在留管理庁の職員は良い印象を持っていませんでした。「あなたはここ(入国者収容所)の所長ではないのですよ」と職員から忠告を受けることもありました。職員にとって、サンデイのような行動力のある人物がいると取り合わなくてはならない面倒な問題や事柄が起き、仕事が増えると思ったのでしょう。しかし、そのようなとき、サンデイは「では、私は何をすれば良いのでしょうか」と答えていたそうです。問題だと思ったものには声を上げ、それを解決しようとするその姿勢こそがサンデイなのです。日本の移民政策によって組織化された不公平感に苦しむ人々のために声を上げ周囲に影響を与えるサンデイは、必然か自然かリーダー的存在となっていきました。

「ここはただの一時的な収容の場所であって、刑務所のような場所であってはならないはずだ。」

サンデイにとって、入国者収容所は「ただの一時的な収容の場所であって、刑務所のような場所であってはならない」という信念のもと定義されています。しかし、出入国在留管理庁が下す命令はサンデイが正しいと信じている価値観や行動を厳しく制限しているように感じられるものでした。そう彼が考える理由は、母国ウガンダで自身の政治的意思を表明しただけで、迫害と逮捕を幾度となく経験することとなった過去があるからです。彼の意思を制約するような行為や措置をとる場所は、サンデイにとっては刑務所と同様の場所であり、日本の入国者収容所も「どちらも行動を制限し、その場所に留ませる」という点で同じなのです。この彼の強い信念は彼の活動力となり、問題の解決を求めて声を上げる原動力となりました。サンデイが不当な移民制度について周りに話そうとすると、職員には「あなたたち(監視員)ができる唯一のことは私を強制送還させることですが、私が同意しない限りは不可能なため、結果的には何もできないでしょう」と強い姿勢を見せ、職員らがサンデイの影響力を恐れるほどであったと言います。サンデイは、周囲の被収容者や職員に影響を与えることができるリーダーとして、尊厳を持って扱われていると感じたそうです。

サンデイには変化が必要でした。この頃には、サンデイは監視員から周りの被収容者に釈放の申請書の存在を広めることを止められる他、さらに彼ができること、知れること、食べていいものが制限されていました。だから一層、サンデイはこの状況を打開するために変化を必要としていたのです。そして彼は、日本の厳しい移民政策を考慮し、一番合理的であるのはボス(上官)に問題点の改善をするよう直談判することだと考えました。

サンデイには、ボスに対する疑問点や確認したいことがいくつかありました。

これらがサンデイが明らかにしたかった問題点の例です。

  1. 果てしない収容
  2. 食事と医療の制限
  3. 薄情な出入国在留管理庁職員
  4. 収容所からの釈放に必要な保釈金
  5. 仮放免中の行動の制限

2.1. 果てしない収容

あなたたち(出入国在留管理庁及び法務大臣)は一体どのくらい私を収容し、罰しようとしているのか?

刑務所にいる囚人でさえ収容以前から刑期が知らされる一方、入国者収容所の被収容者たちがいつ収容から解放されるのか知らされない事実にサンデイは納得がいきません。果てしない収容は懲罰です。長期間における収容は被収容者本人だけでなく、その家族の将来に大きな影響と不安を与えます。そもそも、サンデイのような難民申請をしている被収容者のほとんどは身の危険があることから母国に帰国できません。つまり、人道的観点からして日本の側から彼を強制送還することはできません。そのような理由から、このような難民申請者を長期収容する利点は全くないのです。また、サンデイの事例のように難民申請者は大抵の場合、難民認定でなく仮放免の措置を取られます。仮放免中は行動制限があり監視下に置かれる状況が続くため、入国者収容所に収容されていなくとも、さらなる懲罰であるとも考えられます(詳細は下記の5つ目の問題点に明記)。以上のような理由から、サンデイは果てしない長期の収容は無駄ではないかと考えています。

最近、入国者収容所内での自殺未遂や自傷行為、そして専門家や支援者及び収容経験のあるサンデイのような当事者の訴えの増加により、政府の諮問機関が入国者の長期収容問題に対する新たな提言案を発表したとの報道がありました。日本政府がやっと以前と比べ積極的に入国者の長期収容問題に対応するかと思えましたが、この議論は入国者収容所にいる被収容者や正式なビザを持たない外国人に自発的な出国を促し、命令に従わない場合は罰則を強化するというものでした。これは国外撤去に向けて移民政策の方針が一層傾いたことを表しています。この提言案は、収容や強制送還を命じる上での要件や基準を明確化することを目標としていますが、現時点においては仮放免中で生活を送る難民申請者は母国に帰ることができない理由があるにも関わらず、正式なビザを持たない外国人として国外撤去の対象とされています。長期収容問題を受け、政府には国外撤去以外の別の案を出す必要性が高まっていますが、まだまだ入国者の「監視と支援の両立」の監視面に比重が大きくなっているのではないでしょうか。多くの被収容者にとって果てしない収容は、入国者収容所の中でも外でも、辛いものであるのです。

2.2. 食事と医療の制限

「なぜ出入国在留管理庁の職員たちは私たち(被収容者)がバナナを食べることを禁止するのか。そもそもこのバナナは私たちが自費で買ったものだ。」

出入国在留管理庁が用意してくれる食事は、あまり質の良いものではありませんでした。贅沢を言いたいわけではありませんが、「卵が2つと肉が2切れ、そしてパン、どれも冷めたもの」といったメニューで「私には食べられない、なぜこんなものを食べなければならないのか」と思ったと言います。その粗末な食事は、人間扱いをされていないような気分になるものでした。サンデイのように所持金のある被収容者は収容所内の売店でバナナなど食べ物を買うことができますが、そうでなければ、お腹を空かせ栄養失調になることもあり得るでしょう。実のところ、法務省は入国者収容所内で支給される食事のメニュー例の写真をホームページにて掲載しています。しかし、現実はその写真とはかけ離れた内容のものが与えられていると複数の被収容者や前被収容者からの証言もあり、食事の質と量の制限が大きな問題であると考えられています。

「彼らはおそらくどうして良いか分からない出入国在留管理庁の職員で、医者や看護師ではない。薬を渡され、それを飲む。ただそれだけ。心配をしてくれているとは思えない。」

入国者収容所内の不十分な医療体制 (東京新聞)

サンデイの体調が悪かったとき、職員はどんな症状であれ彼に同じ薬を数週間与え続けました。彼によると、被収容者の容態が悪い場合は入国者収容所の外にある病院に連れて行かれることもありますが、あまり良い病院ではない上に手錠をかけられ行くため、収容所内で診てもらうより悪いと言います。サンデイだけでなく、他の多くの被収容者からも予約日まで何週間という期間を待ったのにも関わらず、鎮痛剤を処方するのみであったと報告されています。体調不良で早期の正しい治療が必要なときでさえ医療への制限を強いられる現状は、被収容者に無関心で冷淡な日本の移民制度の一面が露わになっている部分と言えるのではないでしょうか。

2.3. 薄情な出入国在留管理庁職員

「私にこれ(手錠)をかけるのなら、私はどんなに具合が悪くても医者にはかからず我慢する。手錠をかけられることで、迫害の記憶がフラッシュバックするかもしれないからだ。」

サンデイは、既存の移民政策による方針や決まりごとは、難民や難民申請をしている人の気持ちや声から学ぼうとしないと言います。サンデイは、収容所外の病院に連れて行かれる際に手錠をかけられると、過去の迫害の記憶のフラッシュバックに苦しんでいました。さらに、出入国在留管理庁による数々面接は毎回、彼に迫害された辛い過去を何度も思い出させました。サンデイはこの繰り返される苦しみに対し、「(難民認定されるに値するほどの迫害であったと認めてもらう為に)他にどんな証拠を出せと言うんでしょうか。私の死をもって証明すれば良いんでしょうか。」と出入国在留管理庁による薄情な対応を訴えます。

出入国在留管理庁の薄情な対応は、日本の法務大臣など決定権を持つものの判断に大きく影響されています。どんな人が難民認定されるのか、正式なビザがおりるのかなどは予測不可能そして不透明であり、牛久の会によると、サンデイを含む仮放免を申請する多くの被収容者の前にはだかる壁です。被収容者と直接関わることのない法務大臣などによるこの問題は終わりなき課題となり、現在も続いています。収容所内で自殺(未遂を含む)や自傷行為の一報が報道されても、「収容所の運営とは一切関係がない」と結論づけられることも珍しくはありません。これらの行為が事実であるとするならば、人権の侵害ではないでしょうか。

2.4. 収容所からの釈放に必要な保釈金

「出入国在留管理庁は私に10万円の保釈金を支払うよう命じた。大した額ではないと思うかもしれないが、私にとっては大きな額だ。」

サンデイが書いた保釈金に対する申し立て
「佐藤さんへ こんにちは。いつもありがとうございます。あなたが私にしてくださっている全てのことに感謝します。良い知らせを喜ばしく思っていますが、私の状況をどうか入国管理局へ知らせていただけないでしょうか?10万円支払うように言われ、大した額じゃないかもしれませんが、私には大きな額なのです。私の難民申請を証拠として、できるだけ額を減らすよう説得してみてください。そこには私がまだCTICなどの非営利団体や友人から援助を受けていることが記載されています。」

働くことを禁じられている被収容者がなぜ、これだけの大きな額の保釈金を払わなければならないのか理解に苦しむとサンデイは言います。サンデイや他の多くの被収容者は友人や非営利団体の援助を頼りに保釈金を確保しなければならないことも多く、そんな理由からも保釈金の減額を願っています。また、入国者収容所から解放できるとなっても被収容者は日本に住む保証人となってくれる人物を見つける必要があります。保証人は多くの責任を受け持つため、日本人であっても見つけることが難しく、被収容者であればなお困難なのです。何かあれば責任は保証人にきてしまうため、それだけの信頼関係を構築したり、お願いをすることは簡単ではありません。元はと言えば、被収容者は出入国在留管理庁の厳格な規則により強制的に収容され、保釈金を払い解放されても本人の意志とは関係なくまた収容される可能性もあるのですから、あまり意味がないのではないでしょうか。

2.5. 仮放免中の行動の制限

もちろん、被収容者のほとんどは出来る限り早く入国者収容所から解放されるべく、仮放免の申請をします。サンデイもまさにその中の一人でした。しかし、サンデイは収容所内にいることと、解放されて仮放免を得て生活することは「行動の制限」という観点で言えば同じことだと言います。彼は当事者として、なぜそう言えるのか彼なりの理由があると述べています。実際に、日本の移民対策の厳しさと疑問の残る説明を考えれば理にかなっているでしょう。

「私はいつ自分が収容所から解放されるのか分からなかった。そして、仮に解放されたとしても私は何かできる訳ではない。このような状況で、どう生活しろと言うのか。」

仮放免中及び収容中の移動制限について語るサンデイ。厳しい行動の制限があっては、自活をしたくても自分では何もできないと語ります。仮放免の措置を取る、また時が来れば収容するということの繰り返しは時間の無駄遣いだと言います。

以下の画像は、仮放免という地位で正式なビザを持たず生活することが、行動の制限という意味では収容所内にいるのと同じなのかをサンデイが説明したものです。

仮放免がなぜ収容所とほぼ同等なのか説明するサンデイによる手書きの画像(収容中に描いたもの)

サンデイは収容所内にいることと、解放されて仮放免を得て生活することはほぼ同等だと考える理由を絵を用いて説明してくれました。丸く囲うように描かれている円状のこの絵は、1階から10階まで見下ろした出入国在留管理庁の建物を囲うように描かれる円は、日本の移民政策の役割を表しています。円の中の四角く囲う線は出入国在留管理庁の建物で、円状の線で表されている日本に囲まれるように描かれています。円と四角の間にできた箇所は、サンデイが滞在したことのある日本の土地です。上から時計回りに、東京、名古屋、茨城、そして埼玉。サンデイは、仮放免中に許可なしでは滞在している県から出られない事実をこの分離された四つの箇所を描くことで表現しています。そして、この許可なしには自由に行動できないことは収容所内でもブロック間を行き来することなどできないため、同じだと考えているのです。また、このような中途半端で曖昧な仮放免と収容の繰り返す事実について「日本では、正式なビザがなければ出入国在留管理庁の決まりに従わなくてはいけません。仮放免であろうと関係なく、いつでも取り消される可能性があります。これが仮放免の問題点です。」とサンデイは言います。もちろん、収容されるよりも仮放免の方がましではあります。しかし、サンデイがここで本当に言いたいことは、解放されても仮放免で生活することは行動の制限という観点で言えば同じことだということであり、そしてそれは「ここ(収容所内)におよそ8ヶ月収容されている状態は(仮放免という措置に)8〜10年間収容されている状態」という彼が収容中に残したメモに現れているのです。

3. ストライキを率いて

入国者収容所では毎日、一日3回お弁当が支給されます。様々な文化的・宗教的背景をもつ人々が集まる収容所で、このお弁当は全ての人の事情に適したものではありません。サンデイによると、お弁当は冷めていて美味しいとは言えないものでした。このお弁当を監視員は毎日、被収容者の元へ運んできます。そして食べない人がいれば、ただ回収にくるということの繰り返しです。このお弁当が食べられない人もいて、何か別の食事がないかと聞く者がいるという問題があるにも関わらず、特に改善されるような様子はないのです。サンデイは、誰も問題を知っていても改善しようとせず、この一連の日課を繰り返す理由を「食事を配膳することが彼ら(監視員)の仕事だから」と言います。そして、食べられるものがないと、サンデイのように収容所の中で自分で食べ物を購入する人もいます。しかし、これもお金に余裕がなければできないことです。ある日、サンデイは自費でよく購入していたバナナを食べることを理由もわからず監視員に禁止されてしまいました。

「1ヶ月、2ヶ月が経過しても、解放される被収容者は誰もいないようだった。いつもいるメンバーも同じだった。そこで私は、何かできないだろうかと考えた。」サンデイは、この長期収容は、日本に出入国在留管理庁が被収容者を母国に送還するために税金などの日本の予算を使うことは進んではしないことと、各国の政府機関などがこれらの被収容者の帰国代を負担しないことなどが背景としてあると考えていました。新たな被収容者が連れて来られるたび、サンデイは母国ウガンダの政府が自分の帰国代を負担することはない上に身の危険上戻れないことを踏まえ、現状を変えるべく考えました。入国者収容所は本来、「刑務所のようであってはならない」とサンデイは繰り返し言います。食事や医療の制限、長期収容を繰り返し、被収容者の言葉に耳を傾けようとしない出入国在留管理庁の行為は、ある意味では一つの拷問でもあるのかもしれません。果敢なサンデイは、ただ黙ってこれらの行為を受け入れることはしませんでした。彼は他の人のリーダーとなり、声をあげる決心をしたのです。

その一つが、ハンガーストライキを行うことでした。ハンガーストライキとは、食事の拒否を通じて自分たちの主張を訴え、待遇改善や人権の尊重を求めることを目的とした命を賭けた抗議です。最近では、2019年にハンガーストライキ中に亡くなった牛久収容所のナイジェリア人の報道が記憶に新しいのではないでしょうか。

ストライキを決意した瞬間。サンデイも、支給されるお弁当があまり口に合わなかった人の一人でした。バナナを購入したりして腹を満たしていましたが、理由もなく反対されては食べるものがなくなるため、ストライキを起こすほかないと考えたと言います。

「(出入国在留管理庁の職員たちは)私たちがバナナを食べるのを禁止することは、死につながる行為だ。だから、私は周囲の被収容者たちにストライキを起こす必要があるかもしれないと説得した。」

サンデイと彼の考えに賛同した他の被収容者たちがストライキを起こす最終的な目的は、出入国在留管理庁のボス(上官)と面会することでした。彼らは、既にこれだけの制限を受けている中でなぜ食べるものさえも制限されるのか尋ねたかったのです。

しかし、ハンガーストライキの結果は思わしくありませんでした。全てのハンガーストライキ参加者がボス(上官)に会い、自分たちの意見を訴える目的のために断食をできたわけではありません。「私たちは弱くなっていきました。」そして多くの参加者が断食に耐えられなくなっていく中、「私は、食べ物が運ばれてきても一切口にしませんでした。」とサンデイは語り、そこには彼の信念の深さと忍耐力が垣間見れます。しかしちょうどその頃、監視員たちは彼が何かストライキを企んでいるのではとすでに疑っていました。少し気にはなりましたが、それでもサンデイは一度も諦めようとはしませんでした。

サンデイとストライキの参加者たちは監視員が自分たちを疑っていることを知り、彼らに抵抗するため新しいアイデアを思い付きました。「私たちは計画を変えました。ボス(上官)に面会したく、ボス(上官)がここに来るまでは部屋に戻らないと主張したのです。」とサンデイは言います。ボス(上官)に会い自分たちの主張を聞いてもらうため、サンデイは決して諦めません。収容所の日課では、被収容者たちは毎日夕方の5時には部屋に戻るよう指示されています。しかしこの日、サンデイ率いる被収容者たちは5時になっても部屋に戻ろうとはせず、部屋の外に立ち続けていました。それから2時間以上が経過しても彼らが部屋に入らないため、監視員たちはとうとう防護具などを身につけ、サンデイたちに掴みかかってきたのです。大きなスピーカーからは「ボス(上官)はいない、もう終わりだ」という言葉が響き渡っていたそうです。何人かの被収容者たちは収容されてからもう3年以上が経っていたので、既にこのときストレスが限界に達し叫んでいましたが、サンデイは落ち着いていました。状況はまるで「戦争のようでした」と彼は当時を振り返り、多くの監視員がこんなにも攻撃的になるところを見たことがなかったのでとても衝撃的だったと言います。「彼ら(監視員たち)はもはや人間ではなく動物のように感じられました。彼らが私たちを押す様子は信じられない光景でした。」サンデイはこのとき、監視員たちの裏の顔を見たと言います。結局、最終的にはサンデイたちは諦め部屋に戻るしかありませんでしたでした。

(入国者収容所の)部屋に戻ることを拒んだ日を思い出すサンデイ。出入国在留管理庁の職員たちは動物のようだったと言います。普段は小柄な日本人の印象とは反対に、このときは職員が背が高く大きく見えたそうです。いろいろ抵抗して見るものの、他にできることはなかったと首を横に振ります。
力尽くで被収容者によるストライキの鎮圧を試みる入管職員を描いたもの。サンデイが収容中に経験した職員によるストライキを鎮めた光景と類似している。
– 難民の自由を求める要求に対する日本の差別的な入管職員の反応は捕虜のように閉じ込めることだ。
– 茨城の東日本入国管理センター 2018年10月18日 回想 フェリドゥン・カミャブ・マンスウリ
吹き出し:彼を放せ
– 自由とはどの状況やどの国においても人間の実在する所有物である ジャン=ジャック・ルソー

(Asia-Pacific Journal: Japan Focus)

結局、監視員はサンデイにボス(上官)との面会を希望するならば、必要事項を記入した申請書を提出するようにと言われました。大抵、多くの被収容者はそんな勇気はありません。監視員の言うように申請書を提出すれば、かなり強気に出たと考えられ、自分たちの収容所から出るために申請している過程に何か不利なことが起きるのではないかと思うからです。しかし、サンデイはそんなことでは引き下がりません。彼は今度こそはボスに会うために申請書を提出しました。けれども運は味方をしてくれず、いざボスに会うことができると思った日にサンデイはなぜか病院に連れて来られてしまいました。そう、サンデイはボスに会えなかった事実に加え、騙されたと言っても過言ではないでしょう。

「私は驚いた。ついにボスに会えるときが来たかと思ったら、私は病院に連れて行かれてしまった。」

騙され、ボスとの面会の代わりに病院に連れて来られたと気がついたとき、「何が起きているのだ」、「彼女は誰だ」と混乱していたと言います。しっかりと申請書も書いたため全く訳がわからず、周りの医師や看護師に説明を要求しても彼らも同じくらい混乱していたそうです。しまいには、サンデイの頭がおかしくなったのではないかと疑われ、散々な対応だったと語ります。

出入国在留管理庁の職員たちがボスに会えるとしておきながらサンデイを騙したことは、本人はもちろん他の被収容者もあまり真剣に対応してもらえていない事実を浮き彫りにしています。サンデイは、彼が抱える問題を周りの医師たちは全く理解していないか、または無知であると思いました。病院の医師や看護師に病院に行き着いた経緯と、彼が提出した申請書が本当はボスに宛てて書いたものだと言うことを一から説明する必要があったからです。この理解に苦しむような会話を経て、サンデイはもはやボスに会うと言うことは不可能であると気づいたのでした。そんな経験をしたサンデイはそれでもなお、声を上げることと前に進み続けることをやめませんでした。結果がどうであれ、サンデイは「他の人が私と違った意見を言っていても気にしません。そのときに気にするのは私自身の考えだけです。」と自分の考えを貫く姿勢を見せます。彼は、日本の出入国在留管理庁が提示する厳しい移民政策に無知であること、なんの疑問も持たないことはその人を無知にするだけだと考えます。そんな中、収容所での大変な時期に自分を保つためにサンデイにとって必要だったのは、合理的であることでした。

4. 入国者収容所からの解放

4.1. サンデイが解放された日

8ヶ月が経ち、ついにサンデイが入国者収容所から解放される日がきました。実のところ、サンデイは収容されてから7ヶ月ばかりが経ったときに仮放免の申請が通ったため、もっと早く収容所から出ることができる状態でした。しかし、問題点4(収容所からの釈放に必要な保釈金)でも少し触れたように、被収容者が入国者収容所から解放されるためには保証人の存在が必要であり、そしてその保証人が引き取り人として解放される当日に迎えに来てくれることが条件となっています。そんな中、サンデイの保証人は多忙であったため、なかなか彼を迎えに行くことができず1ヶ月が経過してしまいました。サンデイは彼の保証人以外に誰か他に迎えに来られる人がいないか聞いて回り、最終的にその役目を引き受けてくれる人を見つけました。入国者収容所から出られる当日、この日を待ちわびていたにも関わらずサンデイの気持ちはとても複雑でした。彼には仮放免の措置が取られ収容所から出られるため、また家族と過ごせる日々が帰って来たのでした。もちろんこれは彼にとっても、彼の家族にとっても嬉しいことでした。しかし、与えられた措置は仮放免であったため、サンデイはまたいつこの入国者収容所に収容されてしまうか分からなかったのです。これは今は収容されていないと言えども、仮に身柄を解放されているだけであり、出入国在留管理庁のホームページにもその旨が明記されています。全ての手続きが終わったとき、ようやくサンデイは彼の帰りを待っていた妻と子供達に8ヶ月の時を経て再会することができたのです。

「収容所から解放されたときは子供達に会えるから嬉しかったけど、複雑な気持ちでもあった」と当時の気持ちを振り返るサンデイ。まだ行動の制限もあるし、またいつ収容所に連れ戻されるか分からない状況だからです。サンデイは、子供達は自分のことを忘れてしまったのではないかと考えていたが、しっかりと覚えていてくれたそうです。

場所はどこであれ、サンデイは今までも、そして今も子供たちの父親です。この事実は一生変わりません。サンデイは、現在仮放免中であり、たくさんの制約や、許可を得なければならないものがたくさんあります。

サンデイの言葉を借りると、仮放免は人の行動を逐一監視し制限しているという意味では入国者収容所となんら変わりません。そして現在もこれからも、サンデイは周囲の人々を影響させるリーダー的存在であり続けるでしょう。

「私は声を上げます。なぜなら、私には話すという自由があるからです。」とサンデイは繰り返し言います。彼は問題の解決を求めて声を上げ、自身の信念を貫く能力と素質を生かし、周りに影響を与え続ける人なのです。