日本での最初の数年

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サンデイが日本のビザを取得したのは、たまたまでした。カナダ、アメリカ、イギリスとビザを却下され、ビザが下りるのであれば正直どこの国でも良かったのです。彼はこの時、政治活動への関与を理由とした逮捕や拷問を繰り返し受けており、「感情が爆発する直前」で自殺しかねない状況だったと言います。サンデイは日本についてほとんど何も知らず、当初から希望していた場所ではありませんでしたが、ウガンダから出来るだけ早く出たいと思っていた彼には違う選択肢を待つ時間もありませんでした。

新しい生活の始まり

2007年、サンデイはシャツ2枚とズボン2着、スーツ1着、それから4000ドルだけを持って日本へ一人で飛び立ちました。やっと迫害の恐怖から逃れ、日本で新しい生活を始めようと考えていたサンデイですが、彼の希望とは裏腹に様々な困難が待ち受けていたのです。最初の数か月は何をしたかとの問いに、サンデイの口から出た言葉は「何も」でした。彼がウガンダで生きがいとしていた家族、ビジネス、政治活動を全て手放してきたからです。また、英語を話す人が少ないため、会話が出来る人がいなく大変だったと言います。住居に関してはホテルに宿泊していましたが、持参した金額では2、3ヶ月が限界でした。しかしどれだけ日本の生活が苦しくても、ウガンダに帰ることだけは考えられませんでした。帰国したら、拷問を受けるか自殺をするかの二択しかなかったからです。そんな中、警察がまだサンデイのことを探していると、兄弟から連絡がありました。

日本地図 (123RF)

「住居の問題があり、仕事もない。全てがめちゃくちゃだった。」

サンデイは日本での生活に慣れるために様々な努力をしました。宿泊場所を探しに、名古屋、埼玉、東京など数々の場所を転々としたと言います。彼の作戦は、住居や職探しに協力してくれそうな人、特に外国人を見つけることでした。助けを求めてみると、泊めてくれたり他の地域にいる外国人を紹介してくれたり、力になってくれたのです。サンデイが取得できたビザでは就労が認められなかったため、なんとか生計を立てるために、ナイジェリアの方とコンテナの積み込みや、中国の方とフィギュアやスピーカー、携帯などの中古品の収集をしていました。

しかし約2000円から5000円の日給は十分ではなく、頻繁に空腹に苦しんでいました。日常生活を送ることでさえ難しかったサンデイは、日本での最初の数年は「カナダとかの違う国に移れるかもしれない」とばかり考えていたそうです。けれどそれは簡単ではなかったと話します。実際に、どこの国でも必要なビザの取得という障壁により、難民(庇護)申請者が日本に入国してから他の国へ移動することは難しいのです。サンデイはカナダ大使館に何回か手紙を送りましたが、日本でも難民認定がされるため、日本で申請することを勧められました。当事者であっても、難民となってすぐは難民認定制度の存在を知らないことが多く、サンデイも来日して2年後にこのような形で知ったのです。

政府からの支援の欠如

難民認定

一人分の難民申請書類 (難民支援協会)

政府から難民認定を受けると、住居や就労許可、健康保険など、基本的な権利を得ることが出来ます。これはサンデイにとって希望の光でした。難民申請に向け、弁護士と共に膨大な時間を費やし書類を準備したそうです。日本では、難民(庇護)申請者は自力で自国の情勢かつ政府から受けた個人的な迫害の証明を収集しなければならないため、申請の準備は大きな負担となります。そもそも命を脅かされている場面から証拠を持って逃れることは稀であり、証明は非常に難しいのです。サンデイの場合、ウガンダでは人権侵害に関する報道は制限されているため、自身で約30ページにも及ぶ書類を作成しました。自身の政治活動や受けた拷問の説明、他の民主党員が捕まる時の写真、死亡証明書や人権報告書などを含んだ「とても具体的な書類」だったと言います。さらに全て書類は日本語でなくてはいけないため、弁護士が翻訳する必要もありました。

しかし他の大勢と同じように、難民不認定という結果が返ってきました。政府からの迫害によって逃れてきたサンデイは、自身の難民認定がされない正当な理由はないはずだと思ったそうです。数ヶ月後に仮放免という短期的な滞在許可は下りましたが、3ヶ月ごとに更新する必要があり、生活に必要な基本的な権利が保障されるものではありませんでした。有効なビザを持たない彼のような難民(庇護)申請者が警察に見つかると収容される可能性があることを、その頃にはサンデイは知っていました。入国者収容所に連れて行かれる恐怖を抱えながらも難民の不認定を裁判で争うことにしましたが、負けてしまいます。

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「理由も教えてくれませんでした」

サンデイは望みを失いました。書類の準備に最大限の労力を費やしたのに、返ってきた答えは「80%は認めるが、20%は認めない」だけでした。これ以上の説明もなく理由が分からないまま、他に何ができると言うのでしょうか。書類のどの部分が不足していたのか説明を受ければ、次の裁判のために弁護士と共に再度準備することができますが、それも出来ません。実際に、難民不認定へ不服を訴える難民(庇護)申請者が裁判で勝つことはほとんどなく、日本の現在の制度においての難民受け入れに対する努力の欠如がこの事から分かります。日本の難民認定率はなぜ低いと思うか、サンデイに尋ねました。

「日本で難民認定されるのは簡単ではありません」  

サンデイの考えでは、日本の厳しい難民認定の根本的な原因は政府の外国人に対しての非歓迎的な姿勢にあると言います。政府は難民が来日する背景を十分に理解しておらず、難民だけでなく移民全体に対する政策が不十分であり、難民の保護を妨げているのです。もう一つの理由として、自国で職が見つからず日本での就労を目的に難民申請をする「偽装難民」の影響が考えられるとサンデイは言います。このような偽装難民を排除するため難民認定制度は厳しくなっており、政府の支援を真に必要とする難民(庇護)申請者が支援を受けられなくなっているのです。彼が述べた理由の他にも、難民を専門とする政府機関の欠如や政府の難民と迫害の狭い解釈、市民の理解不足などが日本の低い難民認定率の背景として考えられます。

生きるための人との繋がり

サンデイはこの期間どのようにして生活していたのでしょうか?先ほど述べたように、彼はたくさんの人に助けを求めました。難民認定の申請をした年、後に住居探しで重要な人となる日本人の年配男性と出会ったそうです。彼とは面白い出会いをしたとサンデイは話します。

川沿いに立つ年配男性 (News Post Seven)

サンデイがいつも川沿いを散歩する際に、よく見かけるフォークリフトに乗る日本人の年配男性がいました。ある日、声を掛けることを決心し、仕事か住まい探しを手伝ってくれないか尋ねたそうです。けれど男性はサンデイが言ったことが理解できず、またサンデイも彼を理解することができませんでした。すると男性はフォークリフトに乗るように誘い、ウガンダ人の男性が働く彼の革の会社に連れて行ってくれたのです。サンデイが彼に事情を説明すると、つい最近購入した中古のアパートに滞在して良いと幸運にも言ってくれました。そこに住めたのは2ヶ月間でしたが、日本人の年配男性が今度は中国人の大家さんを紹介してくれたそうです。彼が所有する家の一つに住んで良いと申し出てくれ、サンデイはそこに7年間住んでいました — 収容されるまでは。