「彼らはたくさんの人を連行し、地下に連れて行った。それから私は6ヶ月間行方不明となった。どこの場所かは分からない、でもそこでたくさんの拷問を受けた。」
ウガンダ政府の反対派である民主党の一員として活動していたサンデイは、逮捕・拘禁を繰り返され、拷問も受けました。ウガンダの民主党は政府から脅威と見られているため、治安部隊(警察・軍隊)から人権侵害にあたる行為を受けています。サンデイは勇敢で影響力のあるリーダーであったため、特に狙われていました。ここではサンデイが難民にになった経緯を紹介します。

サンデイがなぜ政治活動に参加していたのか、またなぜ民主党は迫害されるのかを理解するためには、まずウガンダの歴史と政治を考える必要があります。
ウガンダの政治
ウガンダの独裁的政権
サンデイは幼い頃に、ウガンダにおける最悪の歴史と言われる時代を目の当たりにしました。大量の市民が虐殺され、恣意的な逮捕や収容が行われた時代です。このような人権被害は、軍司令官アミン(1971-1979)と独裁的指導者オボテ(1980)の政権下により行われました。オボテ政権は5年に渡る長いブッシュ戦争を得て、1986年に国民抵抗軍(NRA)のムセベニによって滅ぼされました。それ以来、国は以前より安定に近づいた一方で迫害や人権侵害は無くなりませんでした。この3人のリーダ―には共通点があります。それは、軍事的勢力を利用して力を握った独裁者であることです。国内の問題を解決するために軍隊が使われることが多く、数えきれない程の市民が犠牲になりました。この国では民意を反映した政治が欠如してきたのです。

この混乱は1972年にウガンダがイギリスの植民地から独立した時に始まったとサンデイは説明します。独立前、ウガンダは数世紀に及ぶ強い伝統を持つ5つの王国に分かれていました。サンデイの家族はその中でも、一番繁栄してたロイヤル・ファミリー(ブガンダの王家の士族)に属していました。王の役割は、家族の伝統を受け継ぎ、秩序が乱れた際に王国を守ることであったため、情勢は比較的に平和でした。しかし独立後、大統領が任命されウガンダが共和国となった1967年に、王はみな追放されてしまいます。これにより社会の情勢が悪化し、以来、独裁的・軍事的な指導者による政治が続き、国民の安全が危ぶまれているのです。
「人々のためではなく、人々に強い圧力をかける政府だ。」
「力を握る大統領は、力を持たない人々に圧力をかけ、全ての財産を自分で独り占めしようとする。」
正義のための戦い

サンデイが所属していた民主党(DP)を含む多くの団体が、倫理と人権のために果敢にも独裁政権に対して声を上げてきました。民主党はエンブレムに書いてある通り、「真実と正義」をモットーに活動しています。
サンデイは、父が民主党の一員として活動していたため、自身も参加する義務を感じていました。59人の兄弟がいましたが、サンデイはその中でも父と元も近い存在であると感じていていました。父の苗字である「バムウェヤナ」を受け継ぐように選ばれたからです。父はブッシュ戦争中の1986年に政府軍の攻撃により亡くなり、サンデイは18歳という若い年齢から政治に参加し始めました。
「可哀想だから。多くの人が苦しんでいる姿を見ると、可哀想に思う。」
「例えば窃盗など、常習犯や現行犯として政府がやっている様々なことに気づくようになった。大人になると力もつき、どこに行っても声を上げるようになった。政府が行っていることは何でも、私は声を上げる。」
サンデイは政府の腐敗に気づいており、被害者のことを心配していました。彼の兄弟たちは反政府的な発言をすることを恐れる中、彼は恐れなかったのです。サンデイは話す能力に長けていました。「私は至るところで影響力のある人々と声を上げるようになり、重要な役割に任命されました。」と彼は言います。彼の能力を活かし、民主党の新たなメンバーを募集するリクルート活動を担当するようになりました。これは民主党が集金する方法でもあったため、重要な役割でした。会社でマーケティングの仕事をしていたサンデイは、いろんな場所へ移動し、仕事終わりに政治活動を行いました。その結果、大勢の新しいメンバーを誘うことに成功しました。
反体制派の弾圧
サンデイを含む民主党の人々が正義を求めて声を上げる中、政府は政権に対する忠誠さに欠けると疑う人を逮捕と拘禁を通し、排除していました。反体制派に対する弾圧はムセベ二政権が「無党」を掲げた1986年から始まりました。 独立した政党は公的な場での講習会、会議、集まりなどの政治活動を行うことが禁止され、政党に限らず、記者や人権庇護者など政府に協力的でない団体は、表現・協会・集まりの自由を厳しく制限されました。このような中でも、民主党は1990年代に発言力では一目置かれる存在だったのです。

逮捕、拘禁、そして拷問
2001年、選挙の日。サンデイは投票の不正がないか確認する係として選挙所にいました。事件は、一日の終わりに投票の集計を行う際に起きました。政府の関係者が投票結果を操ろうとしていると疑ったサンデイは、彼らの怪しい命令に従いませんでした。すると警察官は空に向かって発砲しました。しかしサンデイは恐れず、「みんなは逃げましたが、私は動きませんでした。」と話します。政府が不公平な操作により力を握ることを許せなく思ったその瞬間、サンデイはいきなり逮捕され、治安部隊の車へと連行されたのです。
セーフハウス(隠れ家)
サンデイはセーフハウス(隠れ家)という地下施設に連れていかれました。セーフハウスとは、反政府者の疑いを持たれた者が恣意的に逮捕・拘禁される場所です。場所は隠されているため、何人拘禁されているのか、いくつ存在するのかなどの情報はありません。千人以上の被害者による証言があるにも関わらず、政府は以前、セーフハウスの存在さえ否定したことがあります。サンデイは自身が逮捕されて、拘禁された時の状況を語りました。

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サンデイは、泣き声がよく聞こえる真っ暗な場所で、外の世界から孤立されました。サンデイはこの時、既に結婚しており家庭を持っていました。ある日突然帰宅しなかった彼の家族の心配と恐怖が想像できます。動画でサンデイが話すように、彼は目隠しをされ至る所にあるセーフハウスに移動させられました。これは、セーフハウスの場所が特定されず、もし脱走されても場所を教えられることを防ぐためです。さらに、サンデイは場所と時間の感覚を失ったと言います。
「私がどうそこに辿り着いたか分からない。気づいたらそこにいた。いつそこに着いたか、長い期間いたのか、分からない。」
サンデイはセーフハウスの中で、身体的かつ精神的に拷問を受けました。自身の政治活動について質問をされる中、脅され、殴られたそうです。実際、セーフハウスは「テロや反国家」を疑われた人に対して尋問する場所と言われています。拷問は、容疑者から情報を得る方法として頻繁に利用され、彼らが反政府的思想から離れるまで行われます。
多くの暴行から出来た傷跡は、現在も彼の額や手足に残っています。また、受けた拷問のトラウマにより、フラッシュバックを経験することがあるそうです。サンデイは、中には拷問により命を落とす人もいたと言います。
ウガンダの警察・軍隊による暴行
サンデイの迫害の物語から、ウガンダの治安部隊が非常に暴力的であることが分かります。「治安部隊に問題があるんです。政府に代わって権力を行使していて、やりたい放題にする力を持っているから。」とサンデイは説明します。実際に、ウガンダの警察官と軍隊による市民の人権侵害は非難され続けています。活動家は、暴行の背後には治安部隊においての人権を尊重する教育の欠如と、国家による処罰の仕組みの欠如があると考えています。ウガンダは拷問等禁止法を持つ数少ないアフリカ諸国の一つですが、残念ながら施行はされていません。
① 民主党の青年グループであるウガンダ青年民主党(UYD)の一員が抗議中に逮捕される様子 (Daily Monitor)
② UYDの一員が武装した男に攻撃を受けながら逮捕される様子 (Soft Power News)
③ 拷問の被害者に残る傷跡 (Daily Monitor)
④ セーフハウスで目隠しされた男性が拷問を受ける様子 (Eagle)
拘禁者への参加
「ここでは止まらない。政府を支持することもしなければならない。全て受け入れないといけないのである。」
政府機関がどれだけ膨大な力を保持していることを理解したことで、サンデイは政府に常に逆らっていてはいけないと考えました。サンデイが幽閉されていたセーフハウスから脱出する希望は、もはや消えていたからです。しかしこの考え方が、政府軍に参加することで外に出るという方法をサンデイに与えました。治安部隊への入隊者が募集された際に立候補したサンデイは、部隊で奇遇にも小さい頃よく公園で一緒に遊んでいた幼馴染と再会したのです。サンデイは彼に状況を説明し、「逃げ道をあなたが探してくれないか。お願いだから、私を助けて。」と尋ねました。軍事訓練を重ねたあと、違う場所への移動を指揮官から指示された際に、代わりに待ち合わせていた彼の車に乗り込みました。「私は闘いに出た。」とサンデイは言います。捕まる危険を冒し、見事脱出に成功しました。
サンデイは、痛みと多くの傷を抱えてセーフハウスから脱出しました。「咳が止まらなかったし、目もよく見えなくなっていました。」と説明します。民主党の本部は無事に戻って来れた彼を見て驚き、サンデイはどのような拷問を受けたのか、そして何人収容されているのかなど全てを伝えました。この拷問の経験にも関わらず、サンデイは政治活動を止めることはありませんでした。彼は見聞きした問題を無視することが出来なかったからです。サンデイは、もし再度逮捕されたとしても政治活動を続けられると信じていました。
「国を出たい」
2004年、サンデイはさらに二度逮捕をされました。セーフハウスに再び連れていかれて手錠をされた後、何度も殴打、水責め、電気ショックを受けました。この時には、警察官はサンデイの住所や彼と兄弟たちの写真など、彼の情報をたくさん入手していました。また、以前セーフハウスからの脱出を助けてくれた幼馴染から、「政府はあなたのような声を上げる人を狙っている。政治から出ることをお薦めする。あなたがもし耐えられないなら、国から出た方がいい。」と助言を受けました。しかしサンデイは政治活動を続け、警察官に止められる機会が増えました。サンデイは「何かがおかしい」と感じたそうです。市で抗議デモが行われる度に、自身が参加していなかった時でさえも逮捕され、警察署で一日中過ごす日もありました。もうこれ以上耐えられないと思ったのは、2006年に他の民主党員と逮捕された時だと言います。サンデイにとっては四度目の逮捕。民主党の本部の介入により釈放された後、サンデイは「自殺したいかもしれない。」「感情が爆発しそうだ。」と思ったそうです。警察官に止められさらに拷問を受けることから、もう何もできないと無力さを感じました。自殺をすること以外に、逮捕と拷問を避ける方法がないと感じたのです。彼は、正義のために戦う自由をなくしていました。
サンデイは、自身の命の危機を感じたことに加え、家族の安全を心配しました。実際は、ウガンダの治安部隊(警察官・軍隊)は政治活動を行う成人男性を排他的に狙うため、彼の妻と子供たちが殺されることはありません。しかし、サンデイは彼らを危機に脅している責任を感じました。逮捕し続けられ、もし自殺をしたら、家族を支えることが出来ません。彼らを守るために、何より生きる必要がありました。命が一番大事だと強く思ったのです。
「私は全てを置いてきました。私の子供たち、私の母、全てを。生きる方が良かったのです。」



