1988年民主化運動:ミャンマーを去って

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2021年にミャンマーで起きたクーデターは多くの人が耳にしたでしょう。「春の革命」として知られるクーデターへの抗議では、2000人の抗議者が軍によって殺害され、70万人が避難を余儀なくされました。しかしこういった事例は今回のことだけではなく、ミャンマーでは軍事政府が何十年も国民を虐げてきたということは、それほど知られていないかもしれません。終わることのない暴力に対し、ミャンマーの人々は、今回のクーデターから33年前の1988年に民主化運動を起こしたのです。

しかしその運動は軍事クーデターにより鎮圧されてしまいます。ニョーはその一部始終の真っただ中にいたのです。この弾圧により多くのミャンマー人が国外に避難し、日本を含む今日のミャンマー人ディアスポラ(移民コミュニティ)の一因となりました。運動の弾圧は残酷なものでした。ニョーは中流家庭の恵まれた環境にいましたが、政治的混乱と分極化が酷くなった祖国を離れることを余儀なくされたのです。祖国のミャンマーでも避難先の日本でも、数々の苦難を経験してきました。

「住民の子と学生達で喧嘩になり対等の軍が入って銃で打ってる。学生が道の上で亡くなっている。それが最初の日だよ。」

1. 1988年以前のミャンマー

日本の占領が終わった直後の1948年にイギリスから独立して以来、ミャンマーの人々は何十年もの間、独裁的な軍政に苦しみ、致命的な暴力や広範な貧困などの困難に直面してきました。ミャンマーでは1つの政党が国家の最大権力を握っており、警察、消防署、企業などすべては政府に属し、党員や公務員が市民の日々の行動を監視していました。外出するときは必ず、その時間、場所、誰と出かけるかの報告と身分証の提出の義務があったとニョーは説明します。市民が国の規則に違反すると、罰金か1ヶ月の禁固刑でした。軍による社会主義弾圧の中、政府の政策に反対する権利は誰にもなかったのです。

ミャンマーは、3つの圧制的な軍事政権を経験してきました。新しい順に、アウン・サン・スー・チー率いる民主政権を転覆した2021年からの軍政、1992年から2011年までのタン・シュエによる軍政、そして1962年から1988年までのネ・ウィンによる独裁軍政です。間にはミャンマー国民に民主化への希望がもたらされたこともありました。最近の例としては、2011年の改革が挙げられます。軍部の後ろ盾は依然としてあったものの、新政権は政治的、社会的、経済的発展を目指した一連の改革を行いました。もうひとつの重要な例が、1988年に起こった学生主導の民主化デモで、1988年8月8日に起こったことから通称「8888民主化運動」と呼ばれています。

「物も全部国のもの 個人のものはゼロ」

8888民主化運動が始まった背景には、1962年から22年にも及んだネ・ウィンによる独裁政権下の深刻な経済停滞がありました。主要産業の国有化などの社会主義的な経済政策のもと生産の停滞や貨幣価値の低下が進み、1987年には後発開発途上国(LDC)と認定されたのです。日本は1968年より有償資金協力を行っていましたが、同年には債務の延滞が原因で中断となり、軍事独裁政権下孤立してしまったミャンマーは他国からの資金援助も打ち切りとなってしまいました。ネ・ウィンによる「社会主義へのビルマの道」と呼ばれるビルマ式社会主義は民主主義の終焉、経済の腐敗、価格暴騰をもたらし、人々は極度の貧困に苦しんでいたのです。こうして1988年の民主化運動に繋がっていきました。

ネ・ウィンの写真 (Wikipedia)
後発開発途上国の地図 (Plan International)

「経済も悪い、仕事もない、大学終わっても仕事ないし、大学レベルの勉強もできない。国民の怒りが国を悪くする。」

ネ・ウィンの残虐行為を説明する漫画 「1962年 クーデターで政権を掌握したネ・ウィンは14年間の民主主義を終わらせ、同年には反対した市民の射殺を命じた」 (Heroes Vs Villains: Myanmar Edition)

「社会主義へのビルマの道」は完全に失敗し、市民の生活、経済、教育の水準を下げたとニョーは説明します。特に影響を受け、権利や自由もほとんどなく将来の見えない世界に引きずり込まれたのは若い学生たちでした。とりわけ軍政に反対していた彼らが学生運動を結成し反乱を起こすことを懸念した軍政が、授業時間に映画館などの娯楽を被らせ、さらには学校や大学の封鎖すらしたとニョーは説明します。ニョーもその一人であったため、政治的に腐敗した時代に貴重な人生のチャンスを逃した痛みや後悔をよく分かち合っていたのです。大学では数学を専攻し、十分な知性や公務員として働いた経験もあったニョーでしたが、卒業後は良い職を得ることができなかったと言います。1988年には疾うに大学を卒業し家庭を築いていたニョーにとって、もはやミャンマーは家族を養える環境ではありませんでした。

「めちゃめちゃになってる学生時代」

2. 民主化運動の弾圧

民主化運動は、一党独裁の軍事政権に対する怒りと憎しみを長年溜め込んでいたミャンマーの学生、僧侶、公務員、一般市民によりラングーン(現在のヤンゴン)で始まりました。自分たちの自由と権利を求め国歌を斉唱する等の平和的なデモでしたが、軍政はこの非暴力的な民主化運動を武力で制圧したのです。運動の初日には1人の学生が殺害され、4日後には、数十人が虐殺され数百人が投獄されていました。

ラングーン 現在のヤンゴンの地図 (毎日新聞)
アメリカ大使館へのデモ更新 (The Dragon’s Lady)

ニョー自身、路上で学生たちが散弾銃で殺されるのを目撃し、この生々しいショッキングな状況を鮮明に覚えていると言います。大学の門が施錠され、警備隊が入館を阻止しているのを見つけ、アメリカ大使館に向かってデモ行進を開始した学生たち。すると治安部隊が発砲し、大使館の前で多くの学生が頭を撃たれたのです。路上で学生たちの多くの死体を目にしたニョーはこの状況を「野蛮な」弾圧行動であったと語ります。

「学生が道の上で亡くなっている」

「力でおさえてたよ。当時も出てると殺される。だから結構ビデオとかある。アメリカの大使館の前で結構撃っちゃったでしょ?頭で撃っちゃったから。」

8月8日のデモ開始後すぐ12日には22年に及び独裁政権を握ったネ・ウィンが辞職。しかしその後も政治的不安定が続き、9月18日にはクーデターにより国家法秩序回復評議会(SLORC)による軍事政権がまた誕生します。軍政の暴力的な弾圧行動により、ニョーは深刻な身の危険を感じ自分の命も常に危ないと感じ始めました。ミャンマーには潜在的な脅威から市民の安全を確保するような政府の介入や防衛はなかったとニョーは説明します。抗議活動に参加した学生たちと同様、彼もまた、軍の攻撃に備えて武器を準備しておかなければなりませんでした。特に彼には妻と2人の息子がいたため、1人で家族を守ることに不安を感じていたのです。

「自分の家を自分で守らないといけないことになっている。ナイフとか刀を持っていて道を自分で守る状態。政府がない状態は結構怖くてポリスもない、守りもない。」

「当時は政府はない状態になっている」

のち1991年にノーベル平和賞を受賞することとなるアウン・サン・スー・チーが非暴力民主化運動の象徴として登場したのも、この1988年民主化運動でした。全国のデモで演説を行なっていた彼女は同年9月27日に国民民主連盟(NLD)を結成しますが、軍政により自宅軟禁とされてしまいます。翌々年の1990年に行われた選挙では国民民主連盟が81%の議席を獲得しましたが、軍部はその結果を認めず、1995年までスー・チーは軟禁されたままでした。ニョーはスー・チーの支持者であり、ミャンマーの多くの人が望んでいた民主化へと導く彼女の政治を尊敬していました。だからこそ、その後も自宅軟禁に苦しみ2021年のクーデター以降は投獄されている彼女と最終的に自由を得た自分を比べ、いかに不当な状況であるかニョーは訴えます。

「スーチーさん含めて。2年間の中刑務所の中で。私は自由になってるけどスーチーさんは自由になっていない。」

また、ノーベル平和賞の受賞が彼女の声を上げる権利をかえって限ってしまったとニョーは説明します。市民がリスクを冒して軍に対抗できる一方で、彼女は平和的な民主改革者としての象徴を維持することを求められ、その結果、軍がミャンマーを結局支配することとなってしまったと考えているのです。

「スーチーさんは立場としてノーベル平和賞の方でしょ?自分のもらった賞ではもう壁になっているだから、それも意見あるわけよ。私みたいな一般の人からは嫌いになっているか、じゃあ殺すっとか。スーチーさんはできないんですね。」

「自分のもらった賞が壁になっているわけだから」

3. 離脱の決断

1980年代のミャンマーでは、大きな政治的暴動と政策転換が起こりました。突然の貨幣価値暴落により国民の貯蓄は失われ、大学在学中の学生にとっては学費の貯蓄がまったく無価値となったのです。ニョーの家族は幸運にもまだ貯蓄がありましたが、国の経済的不安定は彼らの生活に依然として影響を及ぼしていました。ミャンマー政府の壊滅的な変化を目の当たりにし、ニョーは家族を養うために国を離れ日本に逃げることを決意したのです。

ミャンマーの不安定な歴史の中で、ニョーが人生を変える決断を下したのは1991年、ちょうど30代になったばかりの時でした。独裁政権下とはいえ、国民は十分な資金と正しい書類を手に入れさえすれば、国外に出ることは許されていました。1990年代、ミャンマーのパスポートではタイ、シンガポール、香港、マレーシア、アメリカの限られた州の5ヶ国への渡航が許可されており、経済的困窮と人道的危機のため、何千人もの市民がミャンマー国境を越えて避難することを決めていました。ニョーもその1人で、家族を養うための最初の計画は船員になることだったそうです。どんな仕事が高収入を得られるか考え抜いた結果、ニョーは国を出て船の操縦を学ぶことを考えました。船乗りになることは1990年代特に若い世代に人気があったそうです。外国で仕事をすれば、車や新居を買えるだけの利益を得られる可能性があったと言います。

1991年当時のニョーのミャンマーのパスポート
「100名あれば100名日本に来て働きたい望みはあります」

しかしニョーの最終的な決断は日本に逃げることでした。もちろん、この選択は容易ではありませんでした。ミャンマーを離れた1991年当時2人の息子はまだ幼く、上の子は6歳、下の子はまだ3歳だったのです。ニョーは最初、不安とためらいを感じていましたが、妻や家族の後押しもあり、決断することができたと話します。公務員として働いた貯蓄に加え、日本に庇護する前は両親から経済的な援助を受けており、渡航に費用な資金も集められたそうです。

「私の場合は運が良いで真ん中レベルくらいの家族で生まれたから。」

「当時は日本円でまあ50万ぐらいね 必要です」

当初は命の危険から逃れながら自活できる日本に3年間だけ滞在するつもりだったとニョー話します。「奥さんに『3年くらい頑張って』と言われました。政治も経済も、そして自分という人間も、その3年の間にすべてが変わると信じてミャンマーを後にしたんです。」と語ります。3年後にはミャンマーの状況が改善され、ニョーが家族を養うため多くの収入を得て戻ってくると皆期待していました。しかしこれは彼の31年にわたる日本での長い旅の始まりに過ぎなかったのです。

「自分の人生で軍政が嫌だから」