1. 入国者収容所
2008年、ニョーは隣人の自転車を盗んだと冤罪をかけられたことから在留資格がないことが分かり、入国者収容所に連行されました。収容されたことはすぐに受け入れましたが、いつ強制送還されてもおかしくなく毎晩怖かったと話します。しかし収容所のニョーには毎日何人もの面会者が訪れ、そのうちの1人であった渡辺弁護士のおかげもあり、長期収容が蔓延する入国者収容所をわずか25日で出ることができたのです。1991年の来日後まもなくから17年働いた職場で働き貯めた貯金もあり、出所金の30万円の工面もできました。
難民が入国者収容所に入れられる理由はいくつかありますが、大体が不法入国の疑いがある場合、オーバーステイなど在留資格に違反したと判断された場合など、「退去強制事由に該当すると疑う相当の理由があれば」とされています。ただし国際法において、収容は最後の手段として利用されるべきであり、そのためには相応の理由が必要とされています。
90日間の観光ビザが切れてしまいオーバーステイとなったニョーは、常に怯えながら暮らしていました。「夜に家に戻れる保証はなかったんです」とニョーは思い出して話します。不運なことに2008年のある夜、警察に自転車を盗んだ冤罪をかけられオーバーステイが発覚してしまいます。しかし連行されることを冷静に受け入れたニョーは、収容所に入るときでさえ、ミャンマーの刑務所の様子と比較してそれほど悪くないと判断したそうです。

入国者収容所は通常肯定的に語られる場所ではありません。ニョーの経験も必ずしも楽しいものではありませんでしたが、収容中にベトナムやバングラデシュなどの国々、それから同じミャンマーから来た他の難民たちと仲良くなり、そのうちの何人かとは今でも連絡を取り合っていると言います。被収容者たちは様々な国の出身であり、ほとんどが日本語話者ではないため、意思の疎通に苦労したと考えるかもしれません。しかし、被収容者たちはかえってその違いをポジティブに捉えていたとニョーは話します。自由時間には一緒に日本語を勉強したり、それぞれの国のルールのトランプで遊んだり、時には宗教や政治のような真面目な話で盛り上がったりしたそうです。来日当初は言語の壁に苦労したニョーでしたが、思いもがけない場所でその壁を逆に楽しむ方法を見つけたのでした。
収容中ニョーはかなりの人気者のようだったで、毎日何人もの人が面会に来てくれたと話します。17年1社で働いたという真面目な経歴もあり、毎日面会する人が増えるにつれ、入管の職員もニョーに対して信頼を深めていったと思ったそうです。入国管理及び難民認定法では、退去強制令書が発行された者については「送還可能のときまで」収容を認めており、実質上無期限収容が可能です。私たちの他の語り手であるサンデイやクリストファーも8ヶ月の収容を経験しており、数年収容されるケースすらあります。25日で収容所を後にすることができたニョーは珍しかったのです。
「25日間だけ、運が一番いいだよ。」
収容所を出るための鍵は弁護士を雇うことだとニョーは話します。実際に被収容者が弁護士を雇える可能性は低いのですが、幸運にもニョーは、過去に何百人もの難民を弁護してきた渡邉彰悟弁護士の助けを得ることができました。13年間オーバーステイになっており収容所に連行されるのは時間の問題だと考えたニョーは、在日ビルマ人難民申請弁護団の代表でもある渡邉弁護士に自分の日本での状況について書いた手紙を送っていたのです。渡邉弁護士はニョーに理解と支援を示してくれ、ニョーの保証人になるだけでなく約8万円の出所費も払ってくれたと話します。
「健康上の理由」や「出国準備」などの理由で一時的に収容を解く仮放免という制度でニョーは収容所を後にしました。「オーバーステイの時は家戻る保証はないけど、仮放免は警察見てもそんなに怖くはないわけで」と状況の改善を説明するニョー。とはいえ、仮放免中の生活制限の条件はとても厳しく、就労が認められないだけでなく、居住及び行動範囲も制限されるというものでした。「ビザもないし、3年間仕事ゼロです。1円ももらってないです。」とニョーは話します。仮放免中であることは、日常生活のあらゆる側面に影響を及ぼします。住民登録ができないため住民票も取得できず、携帯電話の契約はおろか、アパートを借りることもできません。「お世話になっている」と話す難民支援協会(JAR)の支援がなければ、医者にかかることも、持病の治療を受けることもできないのです。新型コロナウイルス感染症が流行した際は、住民票のないニョーは一時支援金やワクチン接種も受けることができず、「人間らしいことは何もない」と心の内を明かしてくれました。
「自分の名義では何にもできないわけです。それが簡単な例えだけよ。人間らしいことは何もないです。」
2. 日本の政策から見た難民像
2.1. 放置された難民
彼は歴史的な出来事や自身の経験に触れながら、日本が難民に対して行ってきた扱いの誤りを熱く訴えます。まず1981年の日本の難民条約批准について、ニョーは日本が難民を受け入れるために「日本だけじゃなく世界の参加する契約」を結んだと強調します。それから40年以上経った今日、日本で受け入れられる難民の数はまだほんの一握りです。難民であるにも関わらず不認定となってしまった何千人もの庇護希望者は、最低限の支援や、収容や仮放免による厳しい制約の中、再申請のために時間とお金を費やすしかありません。「苦しい。放置したわけよ政治者は。どうして?どういう意味ですか?」とニョーは問いかけます。
日本は世界で最も難民認定数が少ない国のひとつです。例えば2019年に日本は44人の難民に資格を与えましたが、上のグラフで一目瞭然なように、5桁の数を受け入れている他の経済先進・民主主義国と比べると差が著しいのが現状です。2023年には認定数が303人に達するなど日本でも難民の受け入れが増え始めているとはいえ、世界的に見れば日本の受け入れ率はまだかなり低いままなのです。

ニョーが来日した1991年当時は、難民条約批准から10年経っていたと言えども国内の制度はまだ発展途中で、公的機関や市民セクターからの働きかけはほとんどありませんでした。そのため、2004年まで自分が難民として認定される権利と機会があることにすら思い至らなかったのです。それからの4年間は不認定の判断に対する不服申し立てに費やされ、その間も非正規の滞在者であり続けるしかありませんでした。そして、2008年に入管に収容されてから2021年に難民認定を再申請するまでの13年間は、本来一時的なものであるはずの仮放免のまま暮らしてきました。この30年間の大半は日本経済に貢献してきたのに関わらず、ニョーは働くことも基本的な医療を受けることもできない「苦しい」生活を送ってきたのです。その間ずっと、愛する妻と家族のいる故郷に戻るという選択肢も、身の安全を考えるとありませんでした。
「自分もビザないし、家族ビザない方はどこ行って。30年かかります。思わないでしょ?」
仮放免であることは、いつ捕まるか分からないオーバーステイでいるよりもマシだとニョーは最初は考えました。しかし時が経つにつれて、申請、上訴、裁判、弁護士、書類作成の果てしない連続であることが分かったのです。今までどう頑張ってこれたのかと聞くと、「私は今まで死んじゃった人の心で日本にいる。亡くなった人は奥さん欲しいとか子供に会いたいとかはないわけでしょ?その心を持てないとバカになってますよ。」と答えてくれました。「生ける屍」– それが現在の日本の難民認定制度が彼に抱かせた感情なのです。長期間仮放免であることで、権利や自由が極端に制限され苦しんでいるのは彼だけではありません。2022年末時点で4,671人が仮放免となっており、その多くは難民認定申請を却下され国内にとどまる権利を失った庇護申請者なのです。多くの難民がこの合法でも違法でもない中間の状態のまま、基本的人権もほとんど与えられず見捨てられようとしているように、ニョーの目には映っています。

2022年7月、彼は2度目の難民認定申請の結果を受け取りました。判断は、残念なことにまたも不認定。しかし今回、ようやく在留と就労を許可するビザを与えられたのです。この資格のおかげで、ニョーは学業に励んだりハローワークの就職支援を受けたりできるようになりました。ようやく与えられた権利にニョーは満足してますが、今から30年前にこのような支援があれば、ニョーの人生はどうなっていただろうかと考えずにはいられないと話してくれました。法的地位や難民認定を受けた人であっても、仕事の機会は限られており、特に日本国籍以外の人に寄りそう政策が十分にない中、不安定な立場から抜け出すのは難しいことなのです。
「私もハローワーク行ってできるで今勉強もできる。30年前からできるとみんなもっといいんじゃないかなって思わないですか?」
2.2. 差別される難民
彼が滞在資格を取得するのに10年以上も苦労した一方で、日本はロシアの侵攻から逃れてきたウクライナからの何千人もの避難民はすぐ受け入れ、入国と滞在の資格を速やかに認めました。ニョーは、ウクライナ人に対する否定的な感情は持っていないと断りを入れつつ、2021年のクーデター後の暴力的な弾圧から逃れてきたミャンマーの人々に対する扱いの違いを指摘します。

ミャンマー難民とウクライナ難民の日本での受け入れの違いを説明するために、ニョーまず与えられた在留資格を比較します。彼が何年もの手続きを経てようやく与えられた資格は、有効期限が6ヶ月しかなく就労も週28時間までと制限されているのに対し、ウクライナの避難民に即座に与えられた資格は、有効期限が1年で就労許可も無制限でした。今でも、ミャンマー難民がウクライナ難民と同じ資格を与えられるには、「現に有する在留資格の活動を満了」もしくは「自己の責めに帰すべき事情によらず現に有する在留資格の活動を満了せず」という一定の条件を満たす必要があります。2021年にミャンマーでクーデターが起きたときニョーはすでに日本で暮らしていましたが、母国で起きている危険から逃れていないというわけではありません。安全への恐怖のために戻ることができない、あるいは戻る気さえないというのは、難民の定義における基本的な要素なのです。ミャンマーで再び起こっている恐ろしく抑圧的な生活を経験した彼は、ミャンマー難民もウクライナ難民と同じ権利と自由を与えられても良いと考えています。
2.3. 「偽装」難民
日本の入国管理のもうひとつの根本的な問題として、労働移民の受け入れ拒否をニョーは指摘します。1990年代、ピークを迎えたバブル経済とその崩壊後の不況は深刻な人手不足を引き起こし、「安くいつでも切り捨てられる」と政府や警察も目を瞑った非正規外国人労働者が縁の下の力持ちとして日本経済に大いに貢献しました。ニョー自身もその1人で、1991年に観光ビザで入国して間もなく、82歳の男性の後釜として清掃の仕事を見つけましたが、雇い主はパスポートのコピーを取るだけだったと話します。勤勉で優秀な労働者として認められたニョーは、2008年に入国者収容所に収容されるまで、その会社の部署をまたいで17年間働き続けました。
30年経った今も、非正規外国人労働者の状況は変わっていません。ニョーは仮放免であった14年間働くことができませんでしたが、現在仮放免されている元被収容者仲間の99%は、「働かないと日本では(生活が)耐えられない」ため就労資格がなくても働いていると話します。そしてこのような非正規外国人労働者が警察に捕まることはまれであり、人手の足りない雇用主も見て見ぬふりをしていると付け加えました。「お店で社員欲しい。知っている上で働かせると向こうは責任持てに(持たないと)いけなくる。日本の言葉で『嘘も方便』で、知っているのに知らないもんで働かさせるわけ」とニョーは話します。実際に、人手不足を理由に、就労許可がないことを知っていながら非正規外国人労働者を雇ったことを社長が認めたケースもあるのです。
日本の難民受け入れ数の少なさと厳しい制度を正当化するために、「偽装難民」という言葉がしばしば登場します。これは、難民でないにもかかわらず、難民に与えられる権利や自由を目的に難民認定を申請する人々がいるという考え方です。とりわけ、難民のふりをした移民が就労資格を得る手段として、難民と「偽装」して申請している人々がいるという言い方をされます。日本政府は、難民認定の審査が長期化し「真の」難民の保護に支障をきたしているのは、こういった「就労を目的とする」申請者が難民に「明らかに該当しない」主張をする等の制度の「濫用」が原因であるとの声明を繰り返し出しています。

ニョーも指摘するように、日本には一括りの「就労ビザ」というものはありません。その代わり、働くための在留資格は仕事の種類によって与えられています。現在23種類ありますが、「高度専門職」や「外交」などを除いても、ほとんどが知的労働です。いわゆる「偽装難民」と呼ばれる人々も、他に合法的に働く方法がなく難民認定の申請に頼っているだけで、「人間だって動物でしょ。動物っていうのは食べねばならない。食べるために、生命のために、働かねばならない。」とニョーは話します。「偽装難民」とは、国内の労働力不足を認めず、日本の社会と経済に貢献してきた何万人もの非正規外国人労働者に適切な枠組みを提供しない制度によって生み出された概念だというのが彼の見解なのです。
「偽装難民」という考え方がもたらす影響は甚大です。ニョーのような庇護希望者にとって、申請者の多くが「偽装難民」であるという先入観のせいで、難民としての真実である主張を認めてもらうことがより困難になっているのです。そんな庇護希望者の多くは法的に不安定な状態に長く置かれ、生きていくためにはたとえ不法でも仕事を探すしかありません。こうして、「庇護希望者の多くが就労を目的とする偽装難民である」という議論にかえって拍車をかけてしまうのです。
3. 日本での32年間 そしてこれから
ニョーは長い間苦労してきました。ミャンマーでの最初の32年間は、独裁的社会主義政権による貧困を目の当たりにし、1988年の民主化運動によってもたらされた希望がまた別の軍事政権によって暴力的に弾圧されたときには、身の危険を感じました。身体的・精神的な健康が損なわれることなく自活できる生活を求めて逃れた日本での次の32年間では日常生活の厳しい制限に直面し、彼のような難民を保護すると公約した政府から「放置された」と感じました。
それでもやはり、ニョーは日本に来て良かったと話します。その大きな理由として言論の自由を挙げます。来日直後から、在日ミャンマー人のためにメディアを通じて情報をまとめ広めることに情熱を注いできたニョー。初期のプロジェクトのひとつは、友人と頻繁に発行していた政治雑誌でした。テレビで日本のニュースを見ながら、要点を素早くノートに書き留め、辞書を片手に日本の報道をミャンマー語に翻訳していたと言います。当時の日本語の理解力はまだ乏しかった上、何百部の印刷費用も高く、「2001年は1ヶ月に20万円以上かかったよ。私の給料からも20万かけたから、全財産を入れてやったわけよ。」と話してくれました。けれど情報を共有することの価値と重要性をよく分かっていたニョーは、日本語が話せずテレビでニュースをチェックする暇もない勤勉な在日ミャンマー人のために、情報を共有することが自分の義務だと考えていたそうです。
「情報を仲間のミャンマー人たちがわかるようにミャンマー語で通訳、訳する。そのためにはまず自分がその内容を理解しないにはならない。どう言う風にもまず理解、まず自分がその内容を理解しないにはならない。」
SNSが登場すると、彼はオンラインでニュースの共有をするようになりました。「法務大臣やめたでしょ?Facebookで私すぐ載せたよ。それが効くわけよ。」と昔発行していた雑誌と比べてSNSでの情報共有がいかに早いか嬉しそうに話してくれました。2021年のクーデターで発足した軍事政権に反対する運動においても、自分の「仕事」は政治を研究しテレビで見た有益な情報をSNSに流すことだと考えているそうです。「誰かは分からないけど、役に立てると幸いだよ」と言います。

「ミャンマーには、どんだけ頭が良くて、どんだけ有名な記者になっても自由では書くことができません。私の意見は、ミャンマーにいる時は何もできない。日本では、できる。じゃあ、できるのにそれを使ってないと私は損だと思うわけよ。」
彼はこの活動を30年間続けています。ニョー自身、新しい情報を得たり見聞を広めたりすることが好きなのもありますが、より重要なのは、情報を他の人に伝え日本で起きている出来事をより身近に感じてもらう「自由」でした。メディアで発信してきたことや、私たちに話してくれた日本政府への批判を振り返りながら、ニョーは日本で暮らすことの素晴らしさをこう語ります。「ミャンマーでは自由で喋ることもないし、書くこともないし、雑誌も平気でこういうの作ってみんなに見せてるでしょ?問題ないわけよ、日本は。これが最大のラッキーのチャンスだよ。自分の国でできないもので日本でできることをやらないと。」ミャンマーについて政治活動として執筆することが目的なのではなく、「日本ではできる」からこそあらゆることを学び、書いているのです。

ニョーにはもうひとつ、「国に帰って、ミャンマーの孤児のため派遣会社をやり日本語を教えたい」という夢があります。日本の労働力不足とその答えとしての外国人労働者の存在をよく見てきたニョーは、ミャンマーに平和が再び訪れたら多くの日本企業が現地で事業を拡大し、その時日本語を話すミャンマー人労働者の需要があると考えているのです。「運転手さんだって人の命を預かるから、『左曲がってください』と『右曲がってください』って日本語でミャンマー人の運転手が分かるとね。」と説明します。長い間日本でミャンマー孤児を支援してきたニョーは、これが収入のない孤児たちにとって絶好の機会になると信じているのです。「日本人が20万だと向こうだと7万円でできる。そうすると孤児院の子供は7万はもう天国だよ。」と話します。
日本で新たな生活を歩んできた中で、大変で困難なこともたくさんありました。けれどニョーは、苦労を嘆くのではなく、常にポジティブな面を見つけ自分の周りにあるものに感謝してきました。自分がここまで来られたことを幸せに思っていると話します。メディアを通じて情報を発信し続けたり、ミャンマー人の若者に日本語を教えて仕事の機会を増やしたりといった明確なアイディアがある一方で、「人生は永久に続くものではない」という仏教の無常の教えに触れながら、将来の計画は立てていないと説明するニョー。父から教わったように「現在あることを、一番自分の努力で最大のいいことをやりますしか考えない」と胸に抱き、それに従って生きてきました。「己」という言葉が好きで、物事は「因果応報」であり「良いことをやれば良いことをもらうこと」と信じていると語ってくれました。